2025年8月17日
『自分の考えを横に置いて、
「聖書、全能主、イエス様は正しい」という目線で、 全能主の側に立って物事を見ていく』
ヨハネの福音書 9:35~41
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(起) ヨハネ9章の盲人の癒しの記事から、「自分の考えを横に置いて、『聖書は正しい、全能主は
正しい、イエス様は正しい』という目線で、全能主の側に立って物事を見て行く事」を学びたいと思い
ます。
(承)さて、この世界や私達の命の仕組みを見て行く時、そこにはしっかりとした秩序があり、計算の塊で
ある事が分かります。例えば、人間の体は、酸素、炭素、水素、窒素と、微量のカルシウム、リン、塩素、
カリウム、ナトリウム、マグネシウム、イオウ等の元素から構成されていますが、これらの元素は全て、
地球環境から取り入れる事ができるようになっています。まず、呼吸をする事によって空気中の酸素を
取り入れ、その他の元素は、この地球上の水や食べ物などから取り入れています。人間が生きて行く為に
必要な成分は全て地球環境から取り入れる事ができるようになっているという事は、決して偶然ではなく、
初めからそのように計算されて創られていかないと、生存できません。その秩序を組み立て、それを保ち
続ける事は、すごい力と知恵がなければできない事です。その方を、聖書では天地万物の創り主、
全能主と啓示しています。「天を創造した方、すなわち全能主、地を形造り、これを仕上げた方、
すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた
方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしがヤハウェである。ほかにはいない。』」(イザヤ45:18)
とある通り、「サムシング・グレイト」と言われるこの御方が、万物の創造主であり、私達の命の主なのです。
(転)さて、全能主が私たちの命と万物の創造主である事を知ったならば、私達は「自分が正しい」とは
決して言い張れません。即ち、自分勝手な物の見方、考え方は通用しないという事です。この当たり前の
基準、土台を私達が持っていたら、聖書に出てくる律法学者やパリサイ人のように、傲慢な態度は取らない
はずです。ヨハネ9章を見て行きますと、生まれつきの盲人であった人が、イエス様によって癒されて、
目が見えるようになったという出来事が記されています。このような、とても喜ばしい奇跡が成された
にもかかわらず、パリサイ人達は、それに「いちゃもん」をつけて、癒された盲人とイエス様を罪人扱いし、
非難したのです。しかし、癒された盲人は、パリサイ人達に対して、「全能主は罪人の言う事はお聞きに
なりませんが、全能主を敬い、その御心を行う人の言う事は、聞き入れて下さると私たちは知っています。
…もし、全能主から来られた方でなかったら、あの方は、何一つできなかった筈です」(9:31~33)
と答えました。つまり、「『イエス様は、全能主から来られた御方です。』と認めなければ、説明できない
業です」と盲人は、明確に全能主の側に立って答えたのです。これは、「私たちの命が、全能主から出た
命だ」と明確に論証する提言と同じです。なぜなら、偶然からは、秩序は生まれないからです。ということは、
ユダヤ人達も素直に受け留めていれば、それで良かったのですが、彼らはそうしませんでした。なぜなら、
庶民より自分たちの知識の方が上だと思い上がっていたからです。パリサイ人は、「自分達は知識人だ。
だから、自分たちの考えに従え」という、傲慢な思いに立っていたのです。結果的に、目が開いた盲人は、
ユダヤ人に逆らったことで会堂から追放されてしまいました。現在、進化論を否定する学者たちが、学会から
追放されるのと同じ出来事です。そこで、イエス様は追放された盲人に対して、彼を見つけ、「あなたは
全能主の子を信じますか」と問われました。すると、彼は「主よ、信じます」と素直に答えたのです。彼は、
「目が見えなかったのが見えるようになった」という奇跡を味わって、心から感謝していました。ですから、
たとえ会堂から追放されるような目に会っても、救って下さった方の側に立ち、「自分を癒して下さった
御方をそのまま単純に信じます」という心を持てたのです。私達もこの盲人と同じように、目の見えない
者、能力の無い者、無に等しい者でした。しかし、そんな私達のような者に、目を留めて救って下さる
という事は、普通では考えられません。しかも、私達自身、救われるために良き事は何一つしていません
でした。そんな私たちが、「イエス・キリストの贖いを信じれば救われます」という福音を素直に信じて、
救われたのです。それを、「お前は単純でいいな」と馬鹿にする人もいるかもしれませんが、事実、私達は
自分で自分を救えない世界にいるのですから、もし本当に救って下さる御方がおられるならば、その御方を
そのまま素直に信じる事は、決して愚かな事ではありません。それは、「秩序の満ちた世界は、偶然の産物
ではなく、叡智に満ちた全能主の作品だ」と、単純に信じる心と同じです。ですから、私達も癒された盲人
のように、信じた後は、どこまでも全能主の側に立ち、全能主の目線で物事を見て判断して行くのです。
そして、盲人のように、「全能主を第一にして行く姿勢」、また「全能主への信頼をどこまでも貫いて行く
勇気」を持って行く事が必要です。
(結)私達は、決して自分が正しいから、救われたのではありません。自分よりも、「聖書、全能主、
イエス様の方が正しい」と信じたことで救われたのです。そうであれば、自分の考えは横に置いて、いつも
「聖書は正しい、全能主は正しい、イエス様は正しい」という目線で、全能主の側に立って物事を見て
行けばいいのです。それなのに、パリサイ人たちのように、「自分は、目が見えると言い張るなら、それが
人間の罪となります。」ですから、私たちは、「全ての自然界にはサムシング・グレイトと言われる方に
よって秩序が保たれている」ということを認め、その御方に信頼し、「決して偶然の積み重ねで出来上がった
命ではない」という、当たり前の考え方に立って、自分の知識に頼らず、どこまでも全能主に信頼して
行こうではありませんか。
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