教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


2025年9月14日

全能主に対して、
丸ごと信じて従って行く一途な信仰』

マタイの福音書 8:5~13


(起) マタイ8章5~13節の百人隊長の記事から、「全能主に対して、丸ごと信じて従って行く一途な

信仰
」を学びたいと思います。


(承)さて、詩篇8篇3~4節に、「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ます

のに、人とは、何者なのでしょう」
とあります。私達が、今この宇宙の中で生きている事は、決して偶然の

出来事ではありません。すべてが「ファインチューニング」という、完璧に調整された法則の中で生かされて

いるのです。
例えば、太陽と地球の距離関係は、ファインチューニングの一つです。最近は毎日暑い日が

続いていますが、暑い中でも生きて行ける環境にあります。もし僅かでも地球の軌道が内側に入って太陽に

近付いてしまったら、40℃どころの騒ぎではありません。あっという間に100℃以上の熱を浴びる事に

なります。月の昼は、110度から127度に達します。しかも、その昼は、2週間続きます。月の夜は、

マイナス170度まで下がります。それが2週間続くのです。これではとても生きていけません。しかし、

地球は太陽に対して適度な距離間が保たれており、およそ、12時間ごとに昼と夜が来ます。このように、

人間が生きていける環境が絶妙(ぜつみょう)に保たれているため、私達は生きて行く事ができるのです。また、

人間が生きて行くためには、太陽の光も必要ですが、その光のエネルギーが強すぎても、弱すぎても生きて

行けません。そういう中で、私達が生かされて行くために、丁度良い光の強さ、適切なエネルギー等、

全てがきちんと整えられているのです。これは決して偶然に調整されているものではありません。即ち、

「サムシング・グレート」と言われる偉大な御方が、数え切れない数々のファインチューニングによって

宇宙を設計し
組み立て整えられたからです。全てのものは、全能主によって調整された上に成り立って

おり、私達はその恩恵の中で生かされているのです。


(転)さて、マタイ8章5節から見て行きますと、その全能主を信じ信頼する事が当たり前のように生きて

いた百人隊長
の記事が出てきます。この百人隊長は、しもべが中風で苦しんでいたので、イエス様に「助けて

下さい」と懇願(こんがん)しました。すると、イエス様は「わたしが行って癒してあげよう」と快諾(かいだく)され

ます。
ところが、百人隊長は「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはございません。ただ、

お言葉だけを下さい
」と申し出たのです。当時、この百人隊長はユダヤ教に改宗していましたが、それでも

異邦人としての自分自身の立場を(わきま)えた上で、「お言葉だけ下さい、そうすれば、しもべは癒されます」

とへりくだったのです
。なぜなら、百人隊長は、自分にも家臣がいて、「『行け』と言えば行くし、『来い』

と言えば来る」という上下関係の規律を重んじる中で生活していたからです。ですから、全能主の御子に

対しても、その規律を重んじて、
言葉だけを頂ければ、その通りになります」と願い求めたのです。

この言葉を聞いたイエス様は、「イスラエルの中にさえ、これ程の主を仰ぐ心を持った人は見たことがない

と感心され、「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」と、言われました。すると、しもべは、

その言葉だけで癒やされたのです
。このイエス様は、本来ロゴス(ことば)としての絶対的な権威を持って

おられた創造主です。現在、イエス様は天におられますが、元々は「ロゴス」として、姿かたちを持って

いない霊的な御方でした。そして、初めから、太陽も月も私達の命も、ロゴスの言葉一つで創り上げられた

ものです。「万物は御子にあって創造され、天にあるものも、地にあるものも、…御子によって創造され、

御子のために創造されたのです」(コロサイ1:16)。
その権威を見抜いた百人隊長は、イエス様は

絶対的な権威を持つ全能主の御子ですから、「イエス様が言葉を以って『癒す』と仰られたならば、

しもべは必ず癒される」というイメージ感覚をもって、イエス様に癒やしを願いました。それ故に、

「あなたがお言葉を下さったら、私のしもべは必ず癒されます」と言えたのです。この当たり前のように

信じる信仰こそ、私たちが追い求めている信仰そのものです
。即ち、私たちが今学んでいる、「全能主に

信頼して従うのは当たり前です」
という信仰は、この百人隊長が持っていた信仰です。それを言い換えると、

全能主に対して一途に信じて従う、一方通行の信頼です。
7章21節以降を見ますと、「『主よ、主よ』と

言う者が、皆天の御国に入るのではありません」とあります。「ただ、主のためにこうしました、ああしま

した、預言をしました、悪霊を追い出しました、奇跡を行いました」と言ったとしても、見返りを求めた

行いは、全能主に受け入れられず、「わたしはあなたを知らない」と言われてしまうのです。
ですから、

私達は、見返りを求めて全能主に従って行くのではありません。「私達が全能主に対して生きる」という

ことは、「一途に、とことん主を信頼して従って行くこと」が、当たり前になって行くことです。「イエス

様と私たちの関係は、こういう関係だ」
ということです。


(結)この聖書の箇所は、御言葉の中で一番大切な信仰の心を示しているところです。それは、

丸ごと無条件に主を信じる、純粋な信仰の姿だからです。
私達も、全能主に対して見返りを求めて

損得で生きて行くのではなく、丸ごと信じて従って行く一途な心を通して行くのです。そうすれば、

「信じる者に働く全能の力がどんなに偉大であるか」を見る事ができるでしょう。これから、どんなに

素晴らしい全能主の力を見させて頂けるのか楽しみです。このことを期待しながら、全能主に対する

一途な信仰
を表して行こうではありませんか。


 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室