2025年9月21日
『無条件で主に従って行く一途な心で、 どこまでも、自分の心の本心を通して行く』
~信仰の一本道の極意~
詩篇 139:13 マタイ 10:34~39
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(起) マタイ10章34~39節の御言葉から、「自分にできる、できないに拘る肉の我を砕いて
明け渡し、『わたしに従って来なさい』と言われた主の言葉を、無条件で受け止めて従って行く事」を
学びたいと思います。
(承)さて、まず詩篇139篇13節から、「それは、あなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を
組み立てられたからです」という全能主の存在から見て行きます。それは、私たちの身体の仕組みを
見る時、人間の力を遙かに超えた知恵のあるお方が、「私達の生体の仕組みを、隅から隅まで完璧に
考えて、創って下さった全能主」の御業を見るからです。たとえば「食べる」という動作を見て
行きますと、そこには「凄いなーという仕組み」が当たり前のように働いています。普段、私たちが
当たり前のように食物を「飲み込む」動作は、それが口に入ると、舌先が上がって食物を奥に押し込み、
「軟口蓋」という蓋が上に上がって、食物が鼻に逆流しないように塞ぎます。次に、
普段息を吸っている時は気道が開いていますが、 食べ物が喉を通過する瞬間に、鉄道のポイントが
切り替わるように「喉頭蓋」が気道を塞いで、食べ物を食道へ誘導します。そして、食べ物が
気管に入って行かないようにするのです。この一連の動きを、人間が意識せずに自動的に出来るように
なっているのが驚きです。もしその動作が当たり前のように出来なければ、「食べた物」が気管に入り、
息が出来なくなります。また、鼻に逆流して「食物」が鼻から出て来てきます。このような仕組みは、
食べ物と空気を吸う入り口が、同じ口腔内で為されているために、この「軟口蓋」と
「喉頭蓋」が、重要な働きをしているのです。このように、自動的にポイントが切り替り、
働くように設計され、創り上げられているのです。それを誰が考えて創り上げたのでしょうか。自然が
考えて創り上げたと思いますか?もし、自然が創り上げたと考えるなら、自然は人間より頭が良く、
いつ人間を破滅させるか分かりません。しかし、自然は法則によって働くだけで、考える能力はありません。
ならば、誰がこの絶妙な働きを創り上げたのでしょうか?それは、人間を創り上げる絶対的な力を持つ
「サムシング・グレイト」という存在を認めなければ分かりません。もし、それが徐々に設計して造り
上げて行くものならば、その間に死んでしまいます。この仕組みは瞬時に、しかも初めから完璧に作用する
器官として、創られた創造主がいなければ意味を成しません。その「サムシング・グレイト」こそ、命の
霊魂を持つ私達の「全能主であられる御方」です。その名は「ヤハウェ」、まさに「母の胎のうちで私を
組み立てられた」御方です。
(転)そこで、この全能主からのメッセージを、今日はマタイ10章34~39節から学んで行きたいと
思います。ここでは、イエス様が「わたしよりも、父または母を愛する者は、わたしに相応しい者では
ありません。また、わたしよりも、息子や娘を愛する者は、わたしに相応しい者ではありません」と
言われ、「家族を仲違いさせる」とか「家族がその人の敵になる」と言われているのです。そのように
言われているのは、キリストを信じたクリスチャンは、どこまでもイエス様が第一で、イエス様に在って
生きて行く者だからです。しかし、そのような生き方は、「自分の自由を否定されるような生き方だ」と
思い、「それは嫌だな」とか、「家族が仲違いするような信仰なら、自分は無理」という気持ちになって
しまうクリスチャンも、たくさんいることでしょう。しかし、それでも、「自分の努力では、力不足です」
と悟った者が、主に仕えて行きたいと願って「まず父を葬りに行かせて下さい」とお願いすると、イエス様は
「わたしに従うことを願うなら、死人を葬ることは、死人に任せておきなさい」と言われたのです。こうまで
言われるのは、人間の目指すところの目標は、滅び去っていく地上にあるのではなく、天の御国で生きる
永遠こそ、人間が創造された目的であったからです。ですから、イエス様はその御国へ導くために、罪人に
アオリストの救いを与え、人間は地上の願望を求めるのではなく、「私に付いて来たいと思うなら、自分
自身を徹底的に否定し、自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい」と言われているのです。それは、
罪人の私たちが、丸ごと救いに預かったからです。この事が分かれば、信じたクリスチャンはみな、主に
従う道こそ、自分の本心だと思うことでしょう。確かに、「信じた以上は主に従って行きたい」という
本心は、クリスチャンなら消えません。それなら、その本心を通す為には、自分のしたくない事やできないと
思う事でも、全能主が求められるなら従わなければなりません。逆に自分がやりたいと思う事でも、主の
御心でないなら、止めなければなりません。即ち、どこまでも全能主を第一にして、「分かりました」と
受け留めて行く心がなかったら、自分の霊の本心を通すことは出来ないのです。ですから、霊で始めた
ものを、肉で完成しようとしてはいけません。どこまでも、霊の本心のみで生きて行くのが、クリスチャン
なのです。ペテロにイエス様が求められたものは、一方的な愛です。一方的な愛というものは、「自分の
ことはどうでもいい」という損得抜きの心です。ですから、私たちも自分の損得感情を徹底的に否定して、
主に従う道を選ぶのです。その為に大胆に信じて、「分かりました。何があっても主に従って行きます」
という一方通行の定めをするのです。全能主は、その心を持った者を、イエス・キリストの贖いを根拠に
して天に上げて下さるのです。
(結)ですから、私達は自分自身の心のけじめをつけましょう。それは、できるできないの世界では
ありません。「無条件で主に従って行く一途な心で、どこまでも自分の心の本心を通して行こう」と
定めることが、けじめを付けたクリスチャンの、信仰の一本道の極意なのです。それは、たとえ心の
葛藤が起こったとしても、御霊によって「主に任せる」という明け渡しの心で定めて行くのです。そして、
「主のために一生懸命やった」という実を結んで、天に上げられたら、私達の行く所は「聖なる都」です。
私達にはその真理が明らかにされているのですから、ここに心を向けて行きましょう。どうか、自分の
過去の生き方は「負け犬」であったと認めたなら、肉の努力は通用しないことを悟り、全てを明け渡して、
「わたしに従って来なさい」と言われた主に、無条件で従う心をもって、100倍の実を結んで生きま
しょう。・・・この信仰の世界を実感して下さい・・・
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