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2025年9月28日

『主の前に遜り、どこまでも主を信頼し続けていく
厚い信仰を通していくこと

イザヤ45:18、マタイの福音書14:28~33 


(起) マタイ14章28~33節の記事から、「主の前に遜り、どこまでも主を信頼し続けて行く厚い

信仰を通して行く事」を学びたいと思います。


(承)さて、イザヤ書45章18節から見ていきます。「天を創造した方、すなわち全能主、地を形造り、

これを仕上げた方
、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、

これを形造られた方
(まこと)に、このヤハウェがこう仰せられる。『わたしがヤハウェである。ほかには

いない。』」
という御言葉から、この世界がどのような叡智(えいち)によって人の住みかに形造られているか

見て行きたいと思います。まず、私達が生きて行く為に必要な水について見て行きますと、水の特色は、

色々な物を溶かし込むという特徴があります。それは、山の中にある色々な元素(マグネシウム、カルシウム、

鉄分、塩素など)を溶かし込み、人間はその水を飲む事によって、体に必要な養分を取り入れる事が

できるのです。また、水は温まりにくく、冷めにくいという特徴があります。そのため、海が太陽の熱で

温められても温度が高くなり過ぎず、逆に太陽が照らなくなっても温度が下がり過ぎる事もありません。

また、水は常温でも蒸発するという特徴があるため、太陽の熱で海の水が蒸発して雲になり、雲が太陽を

遮って暑さを和らげたり、雨を降らせたりするのです。また、水は冷やされると氷となって、水に浮くという

特徴があります。その事で、湖や海は表面から凍って行きますが、もしその氷が沈んで行くとしたら、

湖や海の中の生き物は死んでしまいます。では、こんな特別な特色を水に与えていたのは何でしょうか?

自然が創り上げたと考えますか。もし、その中の一つでも欠けてしまったら、生き物は生きて行けません。

では、このような水の性質や法則を誰が定めたのでしょうか。人間が水の性質を定めたのではありません。

また、自然が決めたものでも在りません。もちろん偶然でもありません。それは、天を創造し、地を形造り、

全てを初めから計画し、人間に必要な環境も備えられた御方がいて、初めて成り立つ事です。これは、

「サムシング・グレイト」
と言われる、「ヤハウェなる全能主しか創り出すことの出来ないものです。」

この全能主がいなければ、私達は存在し、生き続ける事はできませんでした。


(転)では、その全能主の言葉が書かれている聖書(マタイ14:28~33)の中から、私たちの信仰の

あり方を学んで行きたいと思います。イエス様は、夜明けの四時頃に湖の上を歩いて弟子達の舟に近付かれ

ました。すると、ペテロは「主よ。あなたでしたら、水の上を渡ってあなたの所に来るようにと、私に命じて

下さい」
と言いました。そこで、イエス様は「来なさい」と言われ、ペテロは水の上を歩き出したのです。

しかし、激しい風を見て恐ろしくなり、沈みかけて金切り声を出し、「主よ、助けて下さい」と叫びました

すると、イエス様は彼の手を(つか)んで、「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と、叱責(しっせき)されました。

「信仰が薄い者」
という事は、主を信じ続けて行く心、その姿勢が弱いという事です
。ペテロは、一度歩き

出した以上、たとえ激しい風を見ても、瞬時に「イエス様がいるから大丈夫だ」と、イエス様を信じる心で

歩き続けて行けば、イエス様と同じ体験が出来たのです。
しかし、彼は風を見て怖くなり、疑って沈んだの

です。「疑う」という心は、弱気な人間の心から出て来ます。「どうしよう。どうしよう」と、「弱気な心」に

捕らわれていては、主の栄光を見る事は出来ません。即ち、このペテロのように、イエス様を信じて歩み

始めても、自分の「気の弱さ」につぶされ、肉の弱さによって無し崩しになり「信仰の薄い者よ」と言われて

しまうのです。ですから、いつも自分を見ている人は、結局は、自分の力不足に沈むだけです。即ち、

いつまでも「行動の伴わない信仰の薄い道」を、惨めな心で送って行くだけです。どうか、どこまでも

信仰で始まったのなら、肉の力で仕上げるのは止めましょう。今からでも、信仰のない底辺から飛び出し、

水の上を歩く信仰に切り替えて行きましょう
。そうしなければ、せっかく信じる心で味わったアオリストの

救いさえも、失う羽目(はめ)になってしまいます。ですから、たとえ力不足の自分を覚えても、大見得

切ってでも、信仰の中に留まる」
という、強さが必要です。その強さが、信仰が薄い所から抜け出す秘訣

です
確かに、この世の中では激しい風を見る事は、日常的に起こって来ます。一山超えても、またすぐ

激しい風がやって来ます。しかし、その中でも「信じると決めた信仰」ならば、その激しい風が、逆に信仰の

心を厚くしていく経験となって行くでしょう。ですから、大見得を切ってでも、信じる心を保つのです

なぜなら、自分で問題を解決して行く力はありませんから、主をひたすら信じて行うのです。ところが、

100%罪人であると悟っていない人間は、中途半端な罪人の根性に立っていますので、「つい自分で

何とかしようと」と考え、自分の努力に頼ろうとします。それが、沈む原因です。私達は、生まれながらに

ブラックな人間ですから、全能主の前に無条件降伏して、信じる道を通して行くのです。そして、全面的に

主に頼って、最後まで信じて水の上を歩くと、決めるのです。主は、その決断を持った人なら、ブラックな

罪人さえアオリストの贖いで救って下さったのですから、最後まで、水の上を歩かせて下さるでしょう。

この決断をしなければ、「主に頼っていけば、山も動く」という「信仰の心が育たない」のです。しかし、

「全能主の前に、当たり前のように信頼して行きます」
という信仰に毅然(きぜん)として立つなら、どこまでも

主を信頼し続け、奇跡を味わって行く「厚い信仰」になって行くでしょう。

(結)このように、この世で自分の身に降りかかってくる困難に対して、世的に反応してしまうと、ペテロの

ように私達は沈むしかないのです。しかし、イエス様にあって考えたなら、自分の肉の性質に逆らって「主に

信頼して行けばいいのだ」という、大見得を切って一本道の道を歩み出します。すると、信じ続けて行く者を

主は支えて下さり、知らないうちに、油が(したた)っている幸いを経験するでしょう。即ち、「主に信頼せよ。

主が成し遂げて下さる」
という御言葉が実現するのです。ならば、もう恐れおののいて尻込みするのでは

なく、水の上を歩き続けると決めて、どこまでも主を信頼する厚い信仰を通して行こうではありませんか。


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