2025年6月22日
『まず能主第一の信仰を持ち、どこまでも信じる心を持って、
大胆に全能主に近づき、主に信頼して従って行く事』
ヘブル書 10:8~21
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(起) ヘブル書10章10節「ただ一度イエス・キリストの身体が献げられた事によって、私達は聖く
されたのです」という御言葉から、まず、全能主を第一にする信仰を持ち、どこまでも信じる心を以って
大胆に全能主に近づき、主に信頼して従って行く事を学んで行きたいと思います。
(承)さて、ヨブ記26章7節を見ますと、「全能主は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる」と
あります。私達が今生活しているこの地球は、宇宙に浮かんでいます。それなのに、海水がこぼれ落ちない
のは、何故なのでしょうか?考えてみると不思議でなりません。その事は宇宙の法則で考えると、
「なるほどナー」と思えるかも知れません。しかし、それは偶然に出来た法則ではないのです。
例えば、太陽は地球を引き寄せる力を持っていますが、地球は自転しながら太陽の周りを高速で廻って
います(約107,800km/時、秒速29km/秒)。それは、地球の重力のおかげです。また、これ程の速い速度で
廻っている地球に乗っている私達です。それなのに、じっと留まって立っていられる。そこには強力な
遠心力が働いていて、太陽の引力と地球の遠心力の二つの力が釣り合って運動しているので、地球は浮いて
いるのです。それは、太陽と地球が1本の糸で繋がっているようなものです。地球だけではなく、周りの
全ての惑星が太陽と繋がっており、それで全体的にバランスが保たれているのです。もし、どこか一箇所
でも糸が切れてしまうと、太陽系のバランスが崩れて、この宇宙は巻物に巻かれるようにして消えて
無くなってしまうでしょう。ですから、今現在、宇宙全体のバランスが保たれているのはすごい事です。
それは、宇宙全体のバランスを完全に把握し、物質を存在させる力を持つ全能な御方が、一瞬に存在させ
一瞬にエネルギーを与えて運動を始めさせないと始まらないものです。また、自然界と同じように、
私達自身の体の仕組みも、凄いシステムとバランスの中で存在しています。こんな凄いシステムは、
当たり前ではありません。その仕組みが徐々に出来上がったのなら、次の仕組みが出来上がる前に、
壊れてしまいます。ですから、全てが見事に整っている事実を見る時、その完璧な計算と仕組みは、
同時にそれを動かすエネルギーを与える方が存在しないと成り立ちません。決して偶然の積み重ねで
出来上がったものではなく、偉大な力を持った御方によって創られなければ、成り立たない事が見えて
きます。という事は、全てのものを創造し、生かしておられる偉大な力を持った「サムシング・グレイト」、
即ち「全能主」という御方によって、目的を持って創られ、生かされていることは否定できません。
(転)では、この全能主は、何故この世界を創り、どういう目的を持って人間を創造されたのでしょうか。
そこで、聖書を見て行きますと、全能主の考えが明らかにされています。それは、「心を尽くし、思いを
尽くし、力を尽くし、主なる汝の全能主を愛せよ」と言われた全能主が、「人間を愛の対象として交わる
相手として存在させたかったから」です。ヘブル10章16節では、「わたしが、わたしの律法を彼らの
思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう」と言われています。それは、全能主の考えが私達の心の中に
入れられるという事です。そして、「その心を持った者たちを、新しい天と新しい地に迎え入れよう」
というのが、全能主が人間を創造された目的です。ですから、その事を単純に受け止めたなら、「この御方に
素直に従って行くのが一番だ」という事が分かって来る筈です。すると、もう余分な事を考えるのは止めて、
「全能主に素直に従って行く事は、当然の事だ」と悟るでしょう。そうすれば、「全能主は私達の罪と
不法とを決して思い出す事はしない」(ヘブル10:17)と言って下さるのです。私達は、全能主を
知らず、また聖書を知らなかった時、自分勝手で我が儘な生き方をしていました。しかし、その全ての
罪の負債を帳消しにするというのが全能主の考えなのです。しかも、それは私達の努力によるのではなく、
「ただ一度イエス・キリストの身体が献げられた事によって、私達は聖くされるのです」(ヘブル10:10)
とあります。それは、全能主がイエス様を通して一方的に聖くして下さったお蔭です。ですから、
私達はそのように聖書に書いてある事を本気で信じれば、あとは何も思い煩う必要はありません。しかし、
だからと言って、「信じたらその瞬間に聖なる者に変えられる」という訳でもありません。全能主があえて、
そのようにはなさらないからです。私達が変えられるのは、イエス様が再び来られて、天に引き上げられる
時です。なぜなら、その時まで「信じ続ける心を持って信じて行くかどうか」そして、本気で「まず全能主の
国と全能主の義を第一とする心を持って、この世の中を生きて行こうとするかどうか」という事を全能主は
見ておられるからです。全能主を第一にするという事は、「生まれた時から持っている物の見方、考え方、
感情は、第二にするという事」です。そして、全能主を信じる教会が一致団結し、どこまでも全能主を
信頼して従って行く教会を作り上げて行くかどうかが、全能主の一番の願いであり、目的なのです。
(結)この事が見えてきたら、自分の感情に、拘りを持つのは止めましょう。どこまで行っても私達は
罪人で、汚れた者です。この自分勝手な肉の感情が無くなる訳ではありません。ところが、そういう者に
アオリストの救いという事実があるのです。ですから、どこまでも全能主に信頼し、全能主を第一にして
従って行くのです。しかしながら、地上で生きている以上、世の事柄は私達にとって切っても切れません。
ただ、それは世の事なのですから、世のやり方に合わせておけば、それでいいのです。ただし、もし全能主を
信じて行く事が妨げられるような場合は、その時は「私は同意できません。私達は、全能主を第一にする
生き方を犠牲には出来ません」と明確にするのです。その為には、たとえ、首を切られることがあっても、
「世に魂を売るようなことはしません。どこまでも、私たちの心は、全能主第一です」という定めを持つ事
です。私達の感情は死ぬまで働き続けますが、それでも全能主を第一にして行くところに本物の救いが
あります。どうか、まず、全能主の国と、全能主の義を第一にすると定め、最後まで信じる心を折らずに、
主に信頼して従って行きましょう。
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