2025年6月15日
『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、 主の御心に従います』
ヘブル人への手紙2:3~4、8:10
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(起) ヘブル2章3~4節、8章10節の御言葉から、私達は全能主によって生かされ、救いも頂いたの
ですから、私たちの心に書きつけられた霊的な思い、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、
主なる汝の全能主を愛し、主の御心のままに生きて行きます」という事を学んで行きたいと思います。
(承)さて、私達が今住んでいる地球は、自転しながら太陽の周りを廻っています。それは当たり前だと
思っていますが、地球が宇宙に浮かびながら、毎日同じスピードで回転し続け、その中で私達が生きている
という事は、とても不思議で驚くべき事なのです。例えば、自転のスピードは時速1,666km(秒速
463m)ですが、もしこのスピードが遅くなったり、速くなったりしたら、どうなるでしょうか。1日は
24時間ですが、もし自転のスピードが10分の1になると、1日が240時間となって、地球はゆっくり
回り、日中は120時間の間熱い太陽を浴び続け、夜は120時間の間闇夜が続くことになります。逆に、
自転のスピードが10倍速くなると、朝も夜も1時間12分しかなく、あっという間に終わってしまいます。
そんな事を繰り返されたら、私達は、まともに生きていけません。しかし、地球の自転のスピードは遅く
なったり速くなったりせず、一定のスピードを保って廻り続けているのです。これは、無重力状態の中で、
角運動量保存の法則によって保たれています。また、この宇宙の法則の中では、エントロピーの法則があり、
本来エネルギーは時間と共に減少するはずです。なのに、回転のエネルギーは失われることがありません。
すると、地球は誰かが、初めにエネルギーを与え、法則を創作し、スピードをコントロールしていないと、
現在の環境を保てないのです。他にも、人間がこの地球上で生活できるように、素晴らしい調整が成されて
います。それをファインチューニングと言います。ですから、私達は決して当たり前の上に存在して
いるのではありません。私達が今生きているのは、サムシング・グレイト(全能主)と言われる御方の
おかげなのです。
(転)さて、この事実から分ることは、たとえ人間が自由意思を持っていたとしても、私達が自分勝手に
生きて行くことは間違っているということです。この全能主の支配の中で生かされている命であるなら、
この命を創造された創造主を尊んで生きて行くことは、当然のことでしょう。それなのに、もし、
この創造主を無視して「自分の命は自分のものだ」と傲慢な生き方をすれば、とんでもない結果が待ち受け
ていることになります。それは、私たちの命が偶然の積み重ねによって産まれた命ではないからです。
人間の命を与えた創造主を無視すれば、たこ糸の切れた人生になってしまうからです。ですから、創造主の
意に反して生きた報いはあるという事、それは、自由意思を持って生まれた人間の必然です。この考え方が
嫌で、人間はその全能主と、御子である創造主を信じようとしません。それは、既に信じたクリスチャンにも
言えることです。私達の命は、私たちに命を与えて下さった方のものなのです。なのに、自分の自由意思は、
いつも自分の考えと自分の感情に基づいて使いたいと思っています。その思いは、全能主に逆らうこと
です。しかし、全能主に逆らう生き方は、大きな損失を被ります。命を与えた方の意に逆らって行くの
ですから、その結末は「生ける全能主の御手のうちに落ちるのは、恐ろしいことです」(ヘブル10:31)
と宣言されている結果となるからです。そこで、創造主に創られた人間の正しい生き方が、聖書に啓示されて
います。それは、全能主に対して「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なる全能主を愛しなさい」
ということです。私達は、これまで自分の感情に従って、悪いと分かっていながら、自分の思いと考えで
自由にやってきました。しかし、「それは、もう止めます。これからは、まず全能主を第一にして行きます」
と言うのが、クリスチャンの正しい判断です。それは、クリスチャンが信じた時に、すでに「全能主が、
わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」(ヘブル8章10節)と言って下さった
からです。「律法」というと、「これをしてはいけない」、「あれをしてはいけない」という戒め、
所謂モーセの十戒の事だと思いがちですが、そうではありません。この「律法」というのは、
全能主の聖なる心です。即ち、全能主が人に対して「こうあってほしい」と願っておられる事。それは、
「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの全能主、ヤハウェを愛せよ」という心です。
その心が私達の思いの中に書きつけられているのです。それは、本当に自分は惨めな罪人だと思い知ら
された「砕かれた悔いし心」を持った時に、発見できるものです。単なる、痛い経験をした者だけが書き
つけられるのではありません。信じた者は皆、新しい契約の中にありますから、信じた時に書きつけられ、
心の中に入れられるのです。ですから、「全能主を第一にして生きて行こう」という気持ちは、自分で
自分の心の中を見れば、皆存在するものです。しかし、「心が砕かれていないと、すなわち、我が砕かれて
いない」と、いつも自分の感情の声を優先し、見逃してしまうのです。ですから、もし「自分の考え通りに
したい」という思いが出てきた時には、自分の心の中にある全能主の聖なる心に、目を留める事です。
すると、「自分の感情より、全能主の心に従おう」と思って、砕かれた心を持てるようになるのです。
私達が信じた時には御霊が心に入りました。ですから、御霊を通して教えてもらえるのです。私達は、
心に書きつけられた思いを無視してはいけません。それは、全能主が各自に分け与えて下さった御霊の
賜物なのです。
(結)どうか、今日このメッセージを聞いたなら、心を頑なにせずに、素直な心を持って、「心を尽くし、
思いを尽くし、力を尽くして、主の御心に従います」と、心に書きつけられた気持ちを表して行きましょう。
この心に書きつけられた思いを現して行こうとする者には、「わたしは、彼らの不義を憐れみ、もはや、
彼らの罪と不法を決して思い出すことはしない」と言われるのです。ですから、大胆に確信に満たされて、
全能主に近づこうではありませんか。
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