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2025年2月9日
『
自分の罪を正直に認め、
どこまでも主を信じる心を表して行く
』
ルカの福音書23:40~43、第Ⅰテモテ1:15、2:4~6
(起)
ルカ23章41節から、主と共に十字架につけられたひとりの強盗が、
「大胆に自分の罪を正直に
認めた言葉から、私たちも罪を認めた信仰の心を表して行く事」
を学んで行きたいと思います。
(承)さて、イエス様と共に十字架につけられた二人の強盗の内、ひとりは
「あなたはキリストではないか。
それなら、自分を救って、我々も救ってみよ」と、刑罰を受けている身分でありながら、悪態をついて
自分を救ってくれ
と叫んでいます。
なんと自分勝手な者でしょうか。ところが、もう一方の犯罪人は十字架
上で同じ刑罰を受けつつ、
「俺たちは、自分のやった事の報いを受けているのだから、こうなったのは
当然だ」と言って、隣の強盗をたしなめました。
この潔さは、なかなか持てるものではありません。
なぜ
なら、このように自分の罪を認めてしまうなら、完全に救われる道を失ってしまうからです
。しかし、彼は
自分の罪の報いを認めつつ、イエス様に向かって
「主よ!あなたが、あなたの御国に入られる時には、私を
思い出して下さい」
と言って、イエス様に望みを託しました。すると、イエス様は彼に即答され、
「まことに、
わたしはあなたに言います。あなたは今日、
わたしと一緒にパラダイスにいます
」
と言われたのです。
何と、驚くべき応答でしょうか。強盗を犯して刑罰の報いを受けている悪人です。それなのに、パラダイスに
入れられる救いの道があるとは驚きです。
何故でしょうか。
それは
「キリスト・イエスは罪人を救うために
この世に来て下さり、すべての人の贖いの代価として、御自身をささげられた」
(第Ⅰテモテ1:15、
2:6)とあるからです。
聖書は、この世の人間に対して「義人はいない、一人もいない」というのが、
全能主の見ている世界であると証言しています。
それは、
罪が明らかになり裁きを受けている人間も
、
また、
罪が明らかにならず裁きを受けていない人間も
、
全能主の目の前には、同じ罪人であるからです。
ですから、どんな罪深い人間であっても変わりなく、
罪人を救うために来られたキリストの救いによって、
救われる道があるのです。ですから、自分の罪を棚上げにせず
「自分は罪の報いを受けて当然だ」
と言える
正直な心があれば、イエス様は「その正直な悔いる心の故に赦して下さり、御国に上げて下さる」という事
です。その為に、イエス様はハデスにまで落とされる事を通して、人間の罪の報いを身代わりとなって
受けて下さったのです。
この犯罪人の救いは、ひとえに「自分が罪の報いを受けるのは当然だ」と認める
心があったから、与えられたものです。
何故なら、
全能主は、キリストの贖いがあるという前提で、「人の腹の
底に砕かれた心があるかどうかだけを見て」救うと決めておられたからです。
ですから、私達が救われる
ためにすることは、自分の心を正直に見つめて、
「他人には明らかになっていない罪もたくさん犯し続けて
来た者だと、自分自身を断罪し」、「その報いを受けて当然だと自覚する心」と、「イエス様の贖いの死が
自分の救いのためだったのだ」と信じる心を持つこと、
それが救いに繋がる一番大事な要素なのです。
(転)では、なぜ全能主は「人の砕かれた心だけ」を見られるのでしょうか。
イザヤ66章2節
を見ますと、
「
わたしが目を留める者は
、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」
とあります。
遜って心砕かれた状態とは
、
「俺たちは、自分のやった事の報いを受けているのだから、こうなったのは
当然だ」
という
自覚を持った状態の者です
。私達は、
脛
(
すね
)
に傷を持たない人間は、一人もいません。
ということは、自分で自分の罪を自覚できる
筈
(
はず
)
です。すると、「自分は報いを受けて当然の者だ」
という自覚は、普段も当たり前のように持っているべきです。それは、
「日常生活において、叱られ、
指摘された時に、言い訳したり、言い返したりしない」という事です。
「言い訳したり、言い返す」という
事は、自分を守ろうとする行為であり、
「ただ赦してほしい、分かって欲しい」
という、罪の自覚を持たない
ことの表れです。それは、
悪態
(
あくたい
)
をついている犯罪人と同じです。もし、「自分が犯した罪の報いを
受けるのは当然です」という自覚があるなら、少なくとも言い返す事はしないし、言い逃れをしようとする
ような言葉は出さないでしょう。そして、自分が悪かったと無条件に認め、頭を下げます。
これが、遜って
心砕かれた者の在り方です
。私たちは、
全能主の前に、これさえあればOKなのです。
なぜなら、
罪を
赦すために来られたイエス・キリストのアオリストの贖いがあるからです
。ですから、罪を認める正直な
心は、未信者も含む、全ての人に対して持つべきものです。ですから、
会社でも家庭でも教会でも、言い
返したり、弁解したりせず、
自分の罪を正直に認めて謝る心は大切です。
全能主の前に必要なものは、
その心だけです。
(結)どうか、「へりくだって心砕かれた者の生き方」を実践して行きましょう。それを日々実践する事が
できたら、私達は心の平安を失う事はありません。また、自分の救いを疑い、本当に救われているのか
どうかが、分からなくなるような状態にはなりません。たとえ悪魔が来て、私達の過去の罪や現在の罪、
隠れた罪などを訴えて来ても、「報いを受けるのは当然だ」という遜った自覚を持っているなら、悪魔の
攻撃に
怯
(
おび
)
える必要はありません。悪魔は、
私達を訴える事を仕事として、全能主に使われているの
です。
ならば、これからは
「私はそのように責められて当然の者です」
と認めて悪魔を退けて行きま
しょう。そして、悪魔に対して「私は罪人であるからこそ、主の前にも、人の前にも罪を認め、キリストの
救いを遜って信じて行きます。また、全能主を信頼し、イエス様を信頼して行きます。私にはその心しか
ありませんから」と表明して行くのです。この生き方の中に、私達の平安と救いの確信が起こって来ます。
どうか、
残りの生涯、自分の罪を正直に認め、どこまでも主を信じて行く心を表して行きましょう。
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