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2025年2月16日

『砕かれた悔いし心の土台を持って、
主に信頼し、主に成し遂げていただくという信仰の歩み

第Ⅰペテロ 1:13~17


(起) 第Ⅰペテロ1章15、16節「あなた方を召して下さった聖なる方にならって、あなた方自身も、

あらゆる振る舞いにおいて聖なる者とされなさい。」「わたしが聖なる者であるから、あなた方も聖なる者で

りなさい」という御言葉から、「自分は100%罪人で、御言葉の通りできません」という事実を思い

知らされ、「砕かれた悔いし心の土台を持って、主に信頼し、主に成し遂げて頂くという信仰の歩み」を

学んで行きたいと思います。


(承)さて、今日は「砕かれた悔いし心とは、どういう心なのか」という事について、私自身の経験を交え

ながらお話したいと思います。「私は、自分勝手でわがままな肉の性質を持って生まれ、子供の頃から

『こんな自分は嫌だ』と思いつつも、どうにもならない肉の性質を持ったまま育って行きました。そして、

高校生になり、聖書の福音を語っている集会に行った時、初めて『人間は皆、どうにもならない罪人である』

という話を聞いて『その通りだ』と心が捕えられ、もっと話を聞きたいと思って。キャンプに参加しました。

その中で、『人を裁く汝は何者か』という御言葉に接して、『人が悪いのではなく、自分そのものが悪い

のだ』という事に気付かされました。また、『そんな罪人を救うためにイエス・キリストが来られた』

と聞いて、救われたいと思い、キリストを信じると決めました。同時に献身も決めて、教会にも行くように

なり、信仰生活が始まりました。しかし、依然(いぜん)わがままな性質は変えられていませんでした。

しかし、主の召しに従って、神学校に入り、牧師になって礼拝の奉仕が始まりました。そして、
マタイの

福音書から1章ずつメッセージを語って行く中で、イエス様の山頂の説教に出会(でくわ)し、『自分にはこんな

戒めなど、到底守れる訳がないのに、どうして、人に教える事など出来ようか』と、唖然(あぜん)としたの

です。
御言葉には、『兄弟に向かって怒りを発する者は、誰でも裁きを受けなければなりません(5:22)。』

とか、『もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それをえぐり出して捨てなさい。五体の一部を失っても、

全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって良いからです(5:29)』
とあり、厳しいイエス様の

御言葉に出会(でくわ)したのです。このイエス様が語られた御言葉を『出来ません』と否定したら、メッセージを

語る資格がない。かといって『出来ます』とも言えません。
それを思った時、『自分には聖書のメッセージを

語る資格がない』と痛感したのです。
また『あなた方を召して下さった聖なる方にならって、あなた方

自身も、あらゆる振る舞いにおいて聖なる者とされなさい』(第Ⅰペテロ1:15)
とあります。これでは、

お手上げするしか有りません。自分が、あらゆる欲望を捨てるには、相当な修行をしなければなりません。

そこまでの事は私にはできません。『では、諦めよう』と思っても、信仰は捨てられません。私は、

どうにもならない所に追い込まれました。」
元来、すべての人間は生まれながらに魔物を抱えた罪人であり、

「キリストを信じたなら、皆が高度な聖書の戒めを守りなさい」と言われても、「出来るわけがない」と

言うのが、私達の本音だと思います。
ところが、この衝撃的な事実を正直に認めた時に、御霊によって

「砕かれた悔いし心を、全能主は(さげす)まれません」という御言葉に接したのです。


(転)それでは、このように「悔いし砕かれた心」があれば、クリスチャンとして、続けて行っていいので

しょうか?たとえ
「全能主が(さげす)まれない」と言われたとしても、「私たちは罪人のままでいいのだ」と

言ってもらえるのでしょうか。こんな疑問を抱きながら、もう一度自分の現実を振り返った時、やはり、

「聖書に書いてある通りの事を、守り切ることは到底できない」としか言えません。しかし、「できません」

と降参したら全てが終わってしまいます。ですから、たとえ「自分は弱い人間でも、聖書に書いてある以上、

何とかできる人間になって、人に認めて貰うしかない」と、自分に言い聞かせて、教会生活をしました。

しかし、「何とか、一生懸命やろうとすればするほど」段々自分が「醜い偽善者」に成り下がってしまうの

です。そんな偽善的なクリスチャンになると、失敗をして怒られた場合、なるべく自分の評価を下げない

ように誤魔化したり、弁明をしたり、言い返したりするのです。
こんな自分を抱えながら、自分はどうにも、

こうにも「100%罪人である」と認めるしかないと分かったとき、最終的にたどり着いた所は、完全無条件

降伏しかありませんでした。
ところが、なんと全能主は、この事実を悟ることを求めておられたのです。

なぜなら、ほんの少しでも自分に頼れるところがあれば、人は傲慢になるからです。
ですから、全能主は

完全に無条件降伏した「砕かれた、悔いし心に至るように望んでおられた」のです。これが、罪人に対する

御心でした。
実際に全能主は、「戒めを全部守りなさい」という生き方を律法として求められている訳では

ありません。何故なら、キリストは律法を廃止されたからです。ですから、救われるために必要な人間の

行為は、「砕かれた悔いし心を持つ事」であって、それ以上の事は求められません
。すなわち、
全能主は、

まず完全に無条件降伏するように取り扱いをされます。
そして、その無条件降伏した者に、全能主はイエス

様によるアオリストの完璧な贖いの真理を示されます。
それは、どんな救いかと言いますと、アオリスト

時制による救いは、「たとえ現在、罪に対して死んでいなくとも、キリストの死と共に既に死んだ者」

として見て下さるのです。即ち、条件なしに
「単純過去形の時制」によって、「罪が赦された者であること」を

示して下さっているものなのです。もっと具体的に分かり易く言いますと、「イエス様の贖いを信じた者は、

現在の状態に関係なく、(現在が罪人のままであろうが)すでに過去に起こった贖いの故に、私たちの

罪過(ざいか)
を含む原罪(げんざい)の全てが赦された者だ」と見なされるのです。この時制は、ギリシャ語独特の

時制です。
このアオリスト時制による救いの表現は、その人が信じた時点で「過去、現在、未来」に渡っての

すべての罪に対する完全な贖いが、その人の上に実現しているという言明(げんめい)なのです。これが「アオ

リスト形の時制の救い」
なのです。ということは、「罪人の私たちの為には、完全な贖いがされている」と

言うことです。
この事が分かれば、現在がどうであろうと、救われていることを感謝して良いのです。

後は、この救いに預かっている者として、どこまでも感謝し、「主に信頼して、主が成し遂げて下さる」事を

信じて、ひたむきに信じ通せばいいのです。私たちにとって大切なことは、「まずキリストの救いを信じて

いること」、そして、100%罪人であるという自覚に立って「砕かれた悔いし心を持っていること」と

いう、この二つを持っていれば、全能主はその人を(さげす)まれないのです。何故なら、キリストは、十字架

によって、律法を廃棄されたからです。


(結)ですから、まず「自分は完全に100%罪人で何もできません」という事実を認め、砕かれた悔いし

心の土台を持つ事です。そこが分かった人は、掟としてではなく、喜んで全能主に習って「聖なる者であり

なさい」という御言葉も、棚上げにせずに素直に受け留める事ができるでしょう。なぜなら、たとえ、

罪人のままであっても、放縦でいいという訳ではないからです。アオリストの救いを喜んだ者であれば、

主に在って一つでもできたなら、「主よ、感謝します」という方向に心を向けて行く事になるでしょう。

アオリストの救いに預かった者は、もう「100%罪人の者で、ダメ人間ですから、自分の中からは何も

出て来ません」と悩み続けなくてもいいのです。
どこまでも、主に在って成し遂げてもらえるからです。


どうか、そこを土台にして「主に信頼し、主に成し遂げて頂く信仰」を全うして行きましょう。


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