教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


2025年2月23日

この世のルールではなく、聖書のルールに従って、
とことん主に信頼する高尚な生涯を目指す

第Ⅱペテロ 2:18~22、1:5~8、10~11 


(起) 「この世のルールではなく、聖書のルールに従って、とことん主に信頼して行く強さの中で、

高尚な生涯を目指して行く事」を学んで行きたいと思います。


(承)さて、まず、この世のルールと、聖書のルールの違いを学びたいと思います。第Ⅱペテロ2章18、

19節を見ますと、「不義な者(偽教師)どもは、迷いの中で生きていた人々の中から、ようやく逃れて

来た者たちを誘惑し、自由を与えると約束しながら、迷いの子達を滅びの奴隷にしています」
とあります。

この中で「不義な者」とは、この世に影響された偽教師たち(第Ⅱペテロ2:3)であり、「迷いの子」とは、

クリスチャンである私達の事です。それは、どういう事かと言いますと、聖書のルールは、この世のルール

とは正反対のものであり、クリスチャンが世的になると「迷いの子」となるからです
一般的に、この世の

信じるという行為は、人間の体験ですから「自分で見て、感じて、分かって」信じようとします。
しかし、

聖書の信じるという行為は、アオリスト形ですから「見ていなくても、感覚で実感していなくても、今まで

考えたことのないことであっても」信じるのです。なぜなら、「聖書の論理には筋道が通っている事が

分かる」からです。
この信じ方が聖書のルールです。しかし、多くのクリスチャンは、信じた後に聖書が

語っている救いを「自分の感覚で確かめたい」というこの世のルールに戻ってしまい、そして「迷いの子」に

なってしまいます。私達が信じた聖書の救いは、人間の努力で獲得したものではありません。ただ「自分は

罪人として裁かれて当然の者です」と認めた者が、イエス様を通して成し遂げて下さった「アオリストの

贖い」
を信じた時に、提供された救いです。ですから、そこには罪人であることを認めただけで、一切

人間の(わざ)が入っていません。ですから、(いく)ら自分の実体験で救いを確かめようとしても分からない

のです。また、「人間は皆罪人である」という聖書の主張に対しては、一般の人々は「自分が犯罪を

(おか)
した
という実体験」を通して罪人だと悟りますが、クリスチャンは、犯罪を犯す実体験がなくとも、

聖書が語っている通り、自分が罪人であることを知らされて、分かった者です。それであれば、全能主の

前に「砕かれた悔いし心」を持って、へりくだって従って行く方向に向かうでしょう。それなのに、自分が

罪人であることを実体験しなければ「砕かれた悔いし心の中には入れない」と考えるのは間違っています。

それは、世の中の人と同じように、「体感しなければ信じない」という頑なな心そのものです。その意識は

「迷いの子」そのものなのです。その信じ方が間違いであることが分かれば、聖書は正しいのですから、

自分の実体験を信じるのではなく、ひたすら「聖書を信じ、全能主を信じ、イエス様を信じ続けて行く中で」、

生き方をリセットして行くべきでしょう
そうすれば、「自分を守ろうとして一生懸命頑張らないと行け

ない」という思いから、解放されます。そして、「成果を見て信じたい」「成果を感じて信じたい」また、

「すべて分かって信じたい」という()みついてしまった、この世のルールから解かれて行くでしょう。


(転)聖書は、「キリストと共に甦った」(第Ⅱコリント4:14)という事を、「まだ体験的に見て

いなくても、それを事実として信じなさい」と言われています。残念ながら、私達の救いは、この地上で

見ることが出来ないものです。「聖書のルールは、見ずして信じるものです。」まず、私達が信じ続けて

行く中で、全能主は事を行って下さり、成し遂げて下さるのです。しかし、たとえ自分の願い通りになら

なくても、信じ続けていくのです。この世では、目で見て信じるのが当たり前になっていますから、世の中は、

見える結果が全てです。
また、この世のルールは、自分の努力で道を開いていくものです。ですから、

他人に頼っていては、非難されます
。しかし、それとは全く正反対のルールの中で生きて行こうとして

いるのがクリスチャンなのです。私達は、聖書のルールに従って「罪から解放され、キリストにあって

生きて行く者とされました。」ですから、主に頼って行けば、逆に全能主から信頼されるでしょう。そして、

どこまでも信じて一生懸命に努力し、そして、実を見せて頂くのです。そこは、どこまでも、砕かれた心を

持って主を信じていく世界です。この砕かれた悔いし心を持つ事は、自分が悟ろうと努力して得るものでは

なく、罪人である事実を認めるだけのことなのです。この事は、キリストの救いを、自分の努力で得るもの

ではなく、キリストの贖いをただ認める所に救いがあるのと同じです
この点が世の理解の仕方と違うと

いうことが明らかに分からないと、一生迷いの子となって、信じた直後の素直な信仰を失います。重要な

ことは、「信仰の成果を味わうアプローチは、まず『信じる所』から始まる」ということです。即ち、

自分が一生懸命、頑張って悟って、砕かれた世界に入って行こうとするのではなく、自分が罪人だと素直に

認めて、自分を砕いて行けばいいと認めることなのです。その罪人であるという事実を何とか体験して、

努力して悟ろうとするのは、ただ、罪人であるという事実を信じて認めることとは違うのです。
ですから、

聖書の真理を知る方法は、「生まれながらの方法では、できません。」自分の体験よりも、聖書の語って

いる真理を素直に受け止めることです。「自分は生まれながらに罪人でした」と認めた者に対して、イエス

様の完全なアオリストの救いが実を表すのです。即ち、信じる前までの罪も、信じた後の罪も、十字架の

贖いによって、全部赦して下さっているという所から来る前向きな信仰です。という事は、生まれた時から

死ぬまでの間の自分は全部、イエス様の贖いによって赦され、救われた自分です。ですから、「信じた者は、

イエス様にあって新しく生きて行きなさい」というのが聖書のルール(教え)です。ここから、どこまでも

全能主にあって生きる事を追い求めて行くならば、全能主の性質にあずかる者とされて行く事でしょう。


そういう面で、私達は高尚な生涯を目指して行くのです。それは主が成し遂げて下さる世界ですから、

限界はありません。

(結)こういうわけで、信仰の世界は、この世のルールではないという事を知って下さい。そうではなく、

クリスチャンのルールは、主を信じたのですから、どこまでも主を信頼して行くルールです。「主に在って、

主に祈りつつ、助けられて一生懸命にやっていく」という事が、全てです。
私達の教会は、世の終わりの

集大成の働きをさせて頂く教会です。10万人教会、バイブルランドは、私達の力では不可能ですが、

全能主なら出来ます。道が開かれます。その事を信じ、とことん主に信頼して行く強さを持って、高尚な

残りの生涯を目指して行こうではありませんか。


 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室