2025年3月2日
『目に見える自分の経験ではなく、
目に見えない全能主、イエス様、 永遠に変わらない主の言葉(聖書)を信じていく』
第Ⅱコリント4~8
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(起) 第Ⅱコリント4章18節の御言葉から、「目に見える自分の経験を信じないで、目に見えない
全能主、イエス様、永遠に変わらない主の言葉(聖書)を信じて行く」という信仰の歩みを学びたいと
思います。
(承)さて、第Ⅱコリント4章18節を見ますと、「私達は、見えるものにではなく、見えないものに
目を留めます」とありますが、この世では、目に見える結果が全てです。ですから、「目に見えるもの
しか信じない。目に見えないものは信じない」と言う人達がいます。しかしながら、私達の周りには目に
見えないものがたくさんあります。例えば、私達の生活に欠かせない電気というエネルギーは目には見え
ません。また、人間が生きて行く上で必要な空気も目には見えません。ところが、その目に見えないものに
よって、私達は毎日生かされているのです。ですから、目に見えるものしか信じないという傲慢な姿勢は
間違っています。また、私達は偶然に生まれた命ではありません。飛行機でさえ、偶然には出来上がりま
せん。そこに飛行機が存在するという事は、それを知恵をもって作り上げた人間がいるという事です。
同じように、私達人間の命も偶然に発生し、勝手に組み上げられた存在ではなく、人間以上の能力を持った
御方がいて、人間を創造されたから私達の命があるのです。にもかかわらず、この世では一般的に「目に
見えないものは信じない」と言います。しかし、私達は目に見えない創造主を信じています。なぜなら、
そのお方がいらっしゃらなければ、私達の存在はなかったからです。また、同じように、私達は目で見て
いないイエス・キリストの救いを信じました。それは、「『イエス・キリストは私達の罪のために十字架に
かかって死んで下さり三日目に甦った』という歴史上の事実であり、いろんな角度から証明できる」という
弁証があるのです。ですから、「聖書は正しい」と信じたのです。また、そのイエス・キリストの贖いは、
アオリスト形という時制で記されています。アオリストというのは、日本語に訳すと、単純過去形という
時制のことを指します。単純過去とは、「今現在、自分がそうなっていなくても、もう既にそうなった」
という意味です。即ち、「現在の状況に関係なく、あなたは救われている」と語っているのが聖書です。
ですから、実際問題、私達は今、自分自身の贖われた姿を見てはいませんが、イエス様のアオリストの救いの
故に、もう「贖われた者」とされているのです。それを、私達は信じました。即ち、実際には贖われた
自分を見ていないし、それを体験した訳ではないのですが、「聖書に書いてある事は真実で正しい」という
事で信じたのです。ならば、クリスチャンはその信じ方をずっと続けて行くべきです。
(転)ところが、信じた後に、その信じた心を疑い、失ってしまう人が多くいます。その原因は、「信じた後も
罪を犯してしまう自分が存在し、なお魔物の心を抱えた自分が、本当に救われているのか」という、
不安を覚える所から来る不信仰です。それは、結局、「自分の目で見た事、自分で体験した事でなければ、
信じません」というこの世のルールに填まるからです。そういう人は、聖書を信じているのではなく、
自分の経験を信じているのです。もし私達が自分の行いを通して信じ続け、その条件の下で天に上げて
頂けるのだとしたら、私達は今現在、罪のない聖人になっていなければなりません。ところが、クリス
チャンが御霊の体に変えられるのは、イエス様の再臨まで待たなければなりません。その為、今現在の
歩みは、肉の体のままですが(Ⅱコリント10:3)、私達の救いは、全能主の側から見ると、過去に
おいて既に実現したもの(アオリスト形によって)であり、この地上にあっては旅人の立場として、
アブラハムのように全能主を信頼し、天に望みを置いて歩んで行くものです。また、全能主の前では、
イエス様によって既に律法を完全に廃棄されて、「新しい契約を結ぶ」と言われたことが実現しています。
それならば、私達が信じる信仰の歩みは、既に過去に実現したこと(アオリスト形の救い)を認めて(ロマ6:11)、それを信じて受け取った者の信仰の歩みをして行くのです。ならば、私達は「信じ受け取った」
という事実を翻さず、「ずっと信じて受け取り続けて行く」ところに、救いは完成するのです。
即ち、どこまでも聖書を信じ続けて行くことです。第Ⅰペテロ1章24、25節を見ますと、「人は皆草の
ごとく、その栄華はみは草の花のごとし。草は枯れ、花は散る。しかし、全能主の言葉は、永久に
変わることはない」とあります。ですから、今現在、罪人でダメな自分をいくら味わっていても、また、
全能主を疑いたくなるような要素がいくら起こってきても、永遠に変わらない全能主の言葉である、聖書を
信じて行くのです。「聖書を信じる、全能主を信じる、イエス様を信じる」という心は、ほんの1ミリでも
動かしてはいけません。
(結)私達は肉を持っていますので、「自分で味わいたい。実感したい。目で見たい」というこの世の
ルールに、つい填まってしまうところがあります。ところが、この世は裏切ります。目に見えるものは
一時的だからです。しかし、目に見えないものこそが永遠のものです。この後、患難時代が始まり、必ず
困難がやってきますが、それでも最後まで信じ続ける者が、黙示録に記された「勝利を得る者」です。
それが、信じた者としての証しです。どうか、私達の現実の生き方を、目に見える自分の経験に頼るのでは
なく、「目に見えない全能主の永遠に変わらない主の言葉(聖書)を信じて行く」という、信仰の歩みに
変えて行きましょう。
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