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2025年2月2日

新しい契約に預かった者は、
人間が隠し持つ損得の不純な心を捨て、
全能主を信頼する信仰の一本道を通す』

ルカの福音書 22:17~23


(起) ルカ22章の、過越の食事の時に示された聖餐式の記事から、「イエス様の血によって、新しい契約を

結ぶ」
と言われたことが、どういう事なのかを学び、「イエス様の新しい契約に(あず)かった者として、

人間が隠し持っている損得の不純な心を捨て、
最後まで全能主を信頼し、信仰の一本道」を学んで行きたい

と思います。


(承)さて、イエス様は過越の食事の時に、弟子達に対して聖餐式を行われました。その時、パンを裂いて

弟子達に与えられ、杯も同じ様にして「この杯は、あなた方のために流す、わたしの血で立てられる新しい

契約です」(20節)
と、はっきり言われました。実は、この「新しい契約」については、旧約聖書では

既に預言されていた事でした。エレミヤ書31章31節を見ますと、「わたしは、イスラエルの家とユダの

家とに、新しい契約を結ぶ
」とあり、その契約の内容について、33節に「わたしは、わたしの律法を

彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの全能主となり、彼らはわたしの民となる
」と

あります。これを読むと、新しい契約はイスラエルと結ぶのであって、異邦人である私達とは関係ない

ように思いますが、ヘブル書8章8節~12節を見ますと、同じエレミヤ書の御言葉を引用して、「この

契約が異邦人に対しても実現する」という事が書いてあります。ですから、これはイスラエルに対してだけ

でなく、異邦人である私達にも同じように語られている内容なのです。つまり、私達が全能主の民となり、

子となる
という事です。そして、エレミヤ31章34節を見ますと、「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの

罪を二度と思い出さないからだ」とあるのです。
何と、(すご)い契約が結ばれた事でしょうか。それが、

イエス様の十字架上で実現したのです。私達は、いつも自分の過去の嫌な経験を思い出しては、自分が嫌に

なります。ところが、全能主は私達の罪を二度と思い出さないと言って、私たちを御国に入れて下さるの

です。ところが、私たちが御国に入れられてから、もし古い肉の罪を全能主からチクチクと指摘されたら、

どうでしょう?永遠の御国に入れて頂いていることが、居たたまれなくなるのではないでしょうか。

しかし、新しい契約に依れば、「全能主は私たちの罪を二度と思い出さない」と言われ、イエス様の兄弟とし、

全能主の愛する子として扱って下さるのです。それでも、罪人であった私たちの側では、過去の罪を

思い出すことがあるかも知れません。しかし、それは呪いではありません。ただ傲慢にならず、永遠に

へりくだった心で主にお仕えして行く為のものです。この「新しい契約」がエレミヤ書で予め預言されて

おり、イエス様が十字架上で血を流して下さった時に、それが実現したのです
。私たちは、全能主がイエス

様を通して下さったこの救いは、それだけ純粋なものであり、それを受け取った私たちも、純粋な心で

信じていくのは当然の事なのです。ですから、私達はこの救いを最後まで、純粋な心で信じ通して行く、

ヨシュアのような雄々しさが必要なのです。


(転)しかしながら、この純な心が(つぶ)され、消えてしまいそうになる事が度々あります。それは、悪魔が

私達の所にやって来て、「お前は、救われたという今でも、損得で人を騙し、人を利用しているだろー」と、

私達の過去の罪や、現在の罪を思い出させて、訴え続けて来るのです。すると、「自分のような者が、

本当に信じ続けて行けるのだろうか」と弱気になってしまいます。そして、「こんな自分が御国に入れて

頂けると思うのは、虫が良すぎるのではないだろうか」という不信仰な心に捕らわれてしまうのです。

すると、自分が信じた事が偽りのように思えてくるのです。そして、信じた事を自分自身が否定して

しまうのです。悪魔はいつもそのようにして私達の信仰を潰しに掛かってきます。ところが、聖書には

「後ろのものを忘れなさい」と書いてあります。
それは何故かと言うと、過去の罪を思い出してそれに

捕われたら、自分の純な信仰が奪い取られ、失ってしまうからです。ですから、私達は、駄目な自分を

思い巡らす事は、いつも起こって来る事ですが、それでも、悪魔の罠に填まらない為に、あえて悪魔の

言葉に心を向けずに、聖書の約束の言葉に心を向けて行くべきです。そして、信仰にいつも立つために、

大見得を切ってでも信じる勇気と強さ、悪魔に立ち向かう雄々しさを、「なにくそ精神」で表していくの

です
。それは、過去の罪を棚上げにして帳消しにする事ではありません。私達の罪は、どう頑張っても

帳消しにはなりません。そのため、一生涯ずっと背負って行くものです。しかし、そんな私達に対して

語られている救いは、イエス様のアオリストの救いなのです。この救いに留まるのは、どこまでも「聖書は

正しい、全能主は正しい、イエス様は正しい」方と信じるからです。その全能主が「罪を二度と思い出さ

ない」と言って下さっていた事が、イエス様の十字架の血を通して実現し、今、私達はその救いに預かって

いるのです。
ならば、生涯に渡って罪を背負って行くしかない罪人の私たちも、たとえ現実は弱く、自信を

持てない者であっても、アオリストの救いの故に、「新しい契約」に預かっているのです
。ならば、過去の

罪を見させ、ちょっかいを掛けて来る悪魔に対して、「私は、信じ続けて行く者だ」と、大見得を切っても

良いのではないでしょうか。また、同時に過去の損得感情で信じてきた自分の罪を悔いて、後ろの卑怯な

自分を否定し、「新しい心で、ジョージ・ミュラーのように、どこまでも全能主に信頼していく、信仰の

一本道で歩んで行く」と決めてもいいのではないですか。「損得で人を騙し、人を利用してきた過去の

やり方、自分勝手な思い、裏腹な信仰心を使うのは、もう止めましょう。」 
私達は裏腹な心を完全に

無くす事はできません。しかし、「自分の信じる信仰を汚したくないので、全能主を信頼して行く純な心を

通して行きたい」
という気持ちは、(みんな)が持っている真実な心です。ならば、魔物の心と戦って行きま

しょう。

(結)こういう訳ですから、私達は、「自分自身の心の中に入った純な信仰を汚したくない」という一心で、

そこだけは大見得を切ってでも最後まで貫いて行くのです。これが、私達の「信仰の一本道」です。信仰の

心と損得をごちゃ混ぜにして、いかにも信仰だけで行動しているが如くに見せかけて行く、そんな生き方は

止めましょう
。もし本気で信仰を全うしたいなら、大見得を切ってでも、最後までジョージ・ミュラー

のように、純な心で信じ続けて行く、信仰の一本道を通して行こうではありませんか。


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