2025年1月26日
『新しくされたクリスチャンの生き方』
コロサイ 3:10、ピリピ 3:13~14
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(起) コロサイ3章10節とピリピ3章13、14節の御言葉から、「後ろのものを忘れ、前のものに
向かって懸命に努力し、ひたすら目標を目指して走って行く」という、「新しくされた人の生き方」を学んで
行きたいと思います。
(承)さて、コロサイ3章10節では、「新しい人を着なさい」とあります。私達は、イエス・
キリストの完璧な贖いによって救われ、新しくされました。その救いは、いつ壊れるか分からない
ような不完全な救いではなく、全能主がイエス様を通して成して下さった完璧な救いです。ですから、
私達クリスチャンは、後ろを振り向かず、その完璧な救いをどこまでも信じ続けて行けばいいのです。
それが、「新しくされ、主を信じた人の生き方」なのです。ところが、なかなかそのようにできない
現実があります。それは、信じた後、悪魔が私達の所にやって来て、「本当に信じ続けて行く事が
できるのか?お前は卑怯な罪を犯し続けて来たじゃないか」と、私達の過去の罪を思い出させて、
訴え掛けて来るからです。私達は、過去に失敗した自分、恥を掻いた自分、嫌な自分、駄目な
自分、敗北した自分、落ち込んだ自分というものを、幾つも思い出します。その事実は、消したいと
思っても消せません。それを振り返って思い出すと、「自分のような者が最後まで信じ続けて行き
ます」と言えるだろうかと不安になります。はっきり言って、いつも不安に駆られ、信じる心が
揺らぎ、自分の信仰に対して自信を失ってしまうのです。それが、多くのクリスチャンの現実です。
(転)では、そんな「クルシミチャン」の私達は、どうしたら大胆な信仰に立って行けるのでしょうか。
ピリピ3章13節を見ますと、「後ろのものを忘れなさい」と書いてあります。言葉を替えると、
「過去の自分を完全に否定しなさい」という事です。サタンは、いつも私達の弱さを詰り、
過去の罪を問い詰めて責めて来ます。「あの時お前は、あんな卑怯なことをして黙殺し、
隠し続けているのだろー」と突っ込んできます。しかし、私たちは過去の駄目な自分に引き摺られて
いく必要はありません。なぜなら、私たちはキリストと共に死に、キリストにあって新しい命の中で
生きているからです。ですから、パウロは「後ろのものを忘れ、前のものに向かって懸命に努力し、
ひたすら目標を目指して走って行く」と言っています。それは、サタンの訴えに対して、打ち消そうと
して否定して行く事ではありません。「確かに、過去の自分は駄目だった」と認めて行く正直さは
大切です。なぜなら、過去の駄目な自分を何とかして正しい者に変え、過去の過ちを取り戻そうと
しても、それは無理だからです。はっきり言って、私達は生まれた時から罪人であり、信じてからも
罪人です。この事実は永遠に変わりません。そんな罪深い私達が天に上げられる根拠は、イエス・キリ
ストの完璧なアオリストの救いです。そこには、完璧な贖いと赦しがあります。ですから、このキリスト
によって贖われた者として「新しい人を着なさい」とクリスチャンに語られているのです。ここ
だけに根拠があるのですから、自分という者がどんなに罪深い者で、卑怯な情けない弱い者で
あっても、イエス様の完璧な救いを信じ、全能主を見上げて信頼して行っていいのです。それが、
「後ろのものを忘れて、前のものに向かう」という事です。過去の駄目な自分を見ていたら、絶対に
前向きになれません。また、「信仰による、なにくそ精神」も出てきません。なぜなら、「なにくそ
精神」が出てくるのは、過去の自分を見ないで、全能主を見上げた時だからです。それは、完璧な
全能主に根拠を置くからです。しかし、そこに目を留めると「過去の自分を忘れて全能主を見上げて
行くなんて、虫が良すぎるのではないか」という声も聞こえてきます。しかし、その思いは悪魔の
考えです。私達は罪人で、その罪人を救うためにイエス様が来られ、完璧な救いを与えて下さった
という事を信じるのは悪い事でしょうか。それを悪い事だと言ってしまったら、イエス様を悪者に
する事になります。ですから、私達はイエス様の完璧な救いを受け取り、信じて行く事について、
少しも疑問を挟んではいけません。そうすれば、私達は当然の如く前向きになります。そして、後ろの
ものを忘れ、前のものに向かって懸命に努力して行けるのです。「努力」というと律法的に聞こえるかも
しれませんが、この努力は信じるが故の努力ですから、律法ではありません。なぜなら、これだけの
完璧な救いを主から頂いているのですから、主のために懸命に努力して行くのは、主への愛から
出た行為なのですから。そして、「栄冠を得るために、ひたすら目標を目指して走っていくのです。」
この「栄冠」とは、信仰の生涯を全うした栄冠です。私たちの救いは、「全能主が私たちの罪の
責任をイエス様に負わせて、実にハデスにまで行かせて与えて下さったものです。」それならば、私達が
心から全能主を信頼し、大見得を切ってでも信仰の生涯を全うし、「本気で信じ通した者がここに
いる」という証しをするのです。それによって、全能主とイエス様も栄冠を受けられるのです。私達は、
その為にひたすら前に向かって走って行きます。
(結)どうか、主のために目標を目指して懸命に努力し、何事もひたすら前向きな心を持って、主に
仕えて行きましょう。たとえ、悪魔が過去の駄目な自分を責めて来ても、こう言うのです。「私は、
確かに弱い者、卑怯な者、駄目な人間です。ですから、全能主に対して、その事実は事実として
正直に認め、生涯背負って行きます。しかし、聖書には『過去を忘れて、新しい人を着なさい』と
あるのですから、過去の事に心を留めるのは止めました。私は聖書が正しいと信じ、アオリストの完璧な
救いを信じていますので、悪魔の言葉を退けます」と宣言すれば、その瞬間に、悪魔は去り、過去の
古い自分とサヨナラできます。そして、主を見上げ、主にあって考え、主にあって行動して行くのです。
これが、新しくされ続けて行くクリスチャンの生き方です。どうか、どこまでも全能主を信頼し、
前のものに向かって懸命に努力し、ひたすら目標を目指して走って行きましょう。そして、信じる者に
働く全能主の偉大な力を見せて頂こうではありませんか。
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