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2025年1月12日

嘆かず、大見得を切って、
「信仰による、なにくそ精神」で
どこまでも主を信頼していく

ローマ人への手紙 14:23


(起) ロマ書14章23節の「信仰によらないことは罪なのです」という御言葉から、イザヤ書14章

9~15節の御言葉を解明し、「イエス様が一番醜い悪魔の原罪を担い、ハデスに行くまでの責任を負って

下さった」
という事実の故に、「そこまでして下さったイエス様の贖いがあるからこそ、私達はどこまでも

『なにくそ精神』で主を信頼し、信仰を全うして行く」という強い心を学んで行きたいと思います。


(承)さて、今日はまず、イザヤ書14章の御言葉を解き明かして行きたいと思います。今まで、この箇所は

悪魔について書いてあると思っていましたので、私達の聖書では、12節を「暁の子、ルシファー」と

訳して読んできました。ところが、元々のヘブル語の旧約聖書「マソラ本文とビブライカ本文」では、

「ルシファー」ではなく「明けの明星」となっています。「明けの明星」というのは、黙示録22章16節を

見ると、イエス様の事です。ですから、今回はイザヤ書の御言葉を、そのまま「明けの明星」として

(とら)
えて、そのままイエス様の事として、読み直してみたのです。9節から見て行くと、「下界の黄泉は、

あなたの来るのを迎えようとざわめき…」とあります。「下界の黄泉」とは、ハデスの事です。聖書には、

「イエス様は十字架にかかられた後にハデスに下られた」という事が、詩篇、使徒、エペソ、コロサイなど、

あらゆる箇所に書いてあります。ですから、あなたという所をイエス様に置き換えて読んでみると、

「既にハデスにいた者達は、イエス様がハデスに来られる事を知ってざわめき、大騒ぎになった」と

読む事ができます。同じように、10節以降も、イエス様の事として読む事ができます。そして、13、

14節を見ると、「私は天に上ろう。全能主の星々のはるか上に私の王座を上げ、…いと高き方のように

なろう」とあります。イエス様はこんな事は言われる(はず)がないと思われる言葉ですが、正にその通り、

これは悪魔の言葉です。もう少し分かりやすく言うと、これは、悪魔自身が抱いている思いそのもので

あり、悪魔の原罪
です。という事は、全ての人間がアダム以来この悪魔の原罪を生まれながらに持っている

のです。また、同じように「イエス様がマリヤのお腹から生まれた時に、人の肉を()なわれた為に

同じように悪魔の原罪を()なって生まれる事になり、その為に人の原罪の全てを()ない、その罪の

贖いの為に、身代わりとなって裁きを受けられた」という事です。それだけでなく、罪を()なった事の

責任として、ハデスにまで落とされたのです。つまり、「イエス様は行く所まで行かれて、人間の全ての

罪の責任を負われ、贖いをされた」という事です。その為に、イエス様がわざわざマリヤのお腹の中で育ち、

人間の体を持って生まれ、地上で歩まれ、私達の罪の身代わりとして裁きを受けられたという事が、

どれほどのものであったのかという事が、今回、イザヤ書の読み方を通して明らかにされたのです。

ここで大事な事は、イエス様は人の原罪までも
()われたのですが、()なうのであって、御自分は

罪を犯されなかったという事です(ヘブル4:15、5:7~9)。ですから、身代わりなのです。


(転)では、イエス様の贖いがここまでのものである事が分かったなら、私達は、クリスチャンとして

どのように生きて行くべきでしょうか。それは、あえて不信仰にならずに、どこまでも主を信頼して行く事

です。私達は、信じたからと言って、肉は新しいものになった訳ではありません。過去の罪はしっかりと

私達の中に残っています。また、現在も尚、罪の中にあります。そんな中で、変わらない自分の肉を見て

過去の罪を思い出すと()(たま)れなく(つら)くなります。しかし、それを今告白したとしても、今更

責任は取れませんから、赦しの平安は来ません。そういう罪に関しては、当然辛くても一生涯背負って

行くべきものです。自分が蒔いた種ですから、当たり前です。しかし、その過去の罪も赦されている

というのが、イエス様のアオリストの贖いです。
ですから、「自分は罪人だからダメだ」とか「できない」

という思いを抱き続けて、不信仰になってはいけません。「信仰によらない事は罪であり(ロマ書14:23)、

罪の支払う報酬は死です(ロマ書6:23)。」
ですから、()えて不信仰の中に入り込めば、どんどん

暗闇の中に入って行って、そこに明るさや希望はなく、どうにもならない世界に追い込まれて、魂は死に

追いやられる
だけです。日本人はどちらかというと、そういう自虐的な世界が好きで、その方向に行き

(やす)
い傾向があります。そこで「これではダメだ」と思って自虐を跳ね返そうとしても、悪魔から

責められ、できなかったという現実を突きつけられると、気持ちが弱くなり、主に信頼して行く強さが

出て来なくなってしまうのです。しかし、そこで「なにくそ精神」を出さなければなりません。私達は、

自分の罪によってどんなに辛い思いをしたとしても、その辛い思いを一生涯背負いながら、それでも信じ

続けて行くのです。
イエス様は、一番醜い悪魔の原罪を担い、ハデスに行って、人間の全ての責任を負って

終わりにして下さいました。
そこまでの主の贖いがあるのですから、弱音を吐いて不信仰の中に逃げて

行くのではなく、むしろ、主がハデスまで行かれて私たちの罪の責任を全て負って下さったのですから、

一方では、罪に対して死んだように、 他方では全能主に対して私たちの主イエス・キリストにあって

生きている者であると認め続けなさい。(ロマ6:11)」という真理の二面性の中で()大見得(おおみえ)

()って、どこまでも「なにくそ精神」で主を信頼して行くのです。


※大見栄を張る-ことさらに上辺を取り繕うこと。 
※大見得を切る-ことさら自分を誇示するような態度を取ること。


(結)こういうわけですから、私達はとことん主を信じて行きましょう。あえて自虐になって、「できない」

「弱いからダメだ」という不信仰の中に逃げ込んで行く事は罪です。たとえ弱いダメな自分であっても、

その弱さをそのまま受け留め、敢えて全能主を信じる信仰に進むのです。なぜなら、100%罪人であっても、

100%アオリストの贖いがあるからです。どうか、この真理が分かったら、いちいち(なげ)かないで、愚痴を

こぼさないで、「正しい、なにくそ精神」で、どこまでも主を信頼し、信仰を全うしようではありませんか。


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