2025年1月19日
『信仰の大見得を切る』
~覚悟を持って歩む信仰の神髄~
ルカの福音書 14:25~35
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(起) ルカ14章33節「あなた方は皆、自分の『すべての財産を懸ける覚悟』がなければ、わたしの
弟子となることはできません」という御言葉から、「全能主の国と全能主の義を追い求め、完璧な全能主を
ひたすら信頼して従って行くという事」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、イエス様は大勢の群衆に対して、「誰でも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、更に自分の命までも
捨てて、わたしの許に来るのでなければ、わたしの弟子となることはできません。自分の十字架を負って
わたしについて来る者でなければ、わたしの弟子となることはできません」(14:26~27)と言われ
ました。確かに、言われている事はその通りです。しかしながら、私達が本当に自分の命を捨てて
しまったら、どうやってイエス様の弟子になれるのでしょうか。実際問題、私達人間にそこまでの完璧な
事はできないというのが現実です。次に、邸宅を建てる時の譬え話をされましたが、私達人間の
場合、邸宅を建てる前に費用を計算し、「これで大丈夫だ」と思って建て始めても、最後に足らなくなる
事がいくらでもあります。人間とは、そういう不完全な者です。しかし、全能主は建てようと思えば完璧に
建てる事ができるお方です。例えば、全能主が「光よ、あれ」と言われたら、その瞬間に光が存在した
ように、全能主は完璧な事ができるお方です。しかし、その全能主が私達人間に求めるものは、全能主が
なさるほどの完璧なものではありません。なぜなら、この譬え話の最後には、「あなた方は皆、自分の
すべての財産を懸ける覚悟がなければ、わたしの弟子となることはできません」(33節)と言われている
からです。ここでは、「すべての財産を懸けなければ、わたしの弟子となることはできない」とは言われて
いません。なぜなら、人間に100%完璧なものを求めても、それは人間には不可能だからです。全能主は、
初めから人間の弱さをご存知です。ですから、人間には、「覚悟」を求めておられるのです。それは、
「命を捨てる覚悟」と「自分のすべての財産を懸ける覚悟」、即ち「覚悟」とは、「道理を悟って、心構えを
持つこと」であり、そのことを求めておられるという事です。つまり、信仰の道理はアオリストの完璧な
救いですから、「本気で信じる心構えを持ちなさい」という事です。「完璧な事は全能主がして下さい
ました。」即ち、イエス・キリストのアオリストの救いは、全能主がイエス様を通してなさった完璧なもの
です。全能主は、「イエスを通してお前の一切合切の罪の贖いをした」と言われたら、私達の現実が罪人で
あろうが、過去の自分が罪人であろうが、全能主が言われた以上、私達の一切合切の罪の贖いは
成就しているのです。その事を信じるなら、イエス様の贖いの事実があるが故に、こんな罪人でも全能主に
頼って、天に上げて頂けるまで「信じ続けて行く世界がある」という事です。
(転)では、「すべての財産を懸ける覚悟」とは何でしょうか。それは、「不信仰を捨て、信じる心を
本気で持て」ということです。なぜなら、地上で得たすべての財産も、自分の死と共に全部過去のものと
なっていきますが、天の御国は永遠に続くからです。ならば、天の御国を相続する方が断然価値があります。
私たちは、キリストの完璧なアオリストの救いの故に、天の国籍が保証されています。この道理が分かった
ならば、全能主をどこまでも信じ、信頼して行く覚悟を持つのは、当然のことではないでしょうか。即ち、
全能主の国と全能主の義を第一に追い求め、すべての事に関して全能主に信頼し、最後の最後まで信じて
行く事です。それが、黙示録に書いてある「勝利を得る者」なのです。ところが、どこまでやれば勝利を
得る者となるのかは、ある意味で曖昧なところがあります。しかし、人がどこまでできるかは、人それぞれ
によって違いますから、自分のできる努力は、自分にとっての精一杯です。その後の評価は、全能主に
任せるのです。私達は自分自身を見ると不安でたまらなくなります。しかし、先程もお話ししたように、
全能主がなさる事はすべて完璧です。私達のような者を、「勝利を得る者」として「小羊の花嫁」として
迎え入れる事も、全能主には出来ます。この事は、あくまでも完璧なお方である全能主がなさる事ですから、
私たちが、自分の不安を入れる必要はありません。という事は、私達は完璧な全能主をひたすら信頼して、
従って行けばそれで良いのです。これが、全能主の国と全能主の義を追い求めて行くという、その一点に
心を向け、何が何でも全能主を信頼して行く事が、私達にとって、全てを懸けていく覚悟を持った信仰の
あり方です。
(結)私達人間がする事は、どんなに一生懸命やったとしても、不完全さが残ります。しかし、全能主が
なさったキリストのアオリストの救いは完璧です。ですから、過去・現在・未来の私達自身がどんなに
罪人であったとしても、イエス様の贖いの事実の故に、天に上げていただけるのです。だからと言って、
曖昧な信仰を容認して、不信仰の罪を棚上げにしていいという事ではありません。自分の不信仰によって
蒔いた罪の負債は、生涯負って行かなければなりません。しかし、それがあるからといって、「お前は
ダメだ」とは言われないという事です。なぜなら、イエス様の救いは完璧ですから、それを信じる心さえ
あれば、たとえ自分がダメな人間であろうが、失敗して挫折しようが、大見得を切って、最後の
最後まで信じ続けて行くことができるでしょう。これが、覚悟を持って歩む信仰の神髄です。
ですから、何があろうと、すべての財産を懸ける覚悟で、完璧な全能主をひたすら信じて、たとえ、信じ
続ける事において困難が襲ってきても、信仰の大見得を切ってでも「信仰によるなにくそ精神」で、
全能主の国と全能主の義を追い求め、完璧な全能主をひたすら信頼して、天の御国を目指して行こうでは
ありませんか。
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