2024年9月8日
『贖いと御国の約束の故に、地上の事は主にお任せし、
まず第一に全能主の国とその義を追い求めていく』
マタイの福音書 15:17、6:33 他
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(起) マタイ5章17節、マタイ6章33節の御言葉から、「全能主は、罪人である私達を贖って
下さり、天の御国を約束して下さったのですから、地上の事は主にお任せし、まず第一に、全能主の国と
全能主の義を追い求めて行く事」を学びたいと思います。
(承)さて、私達が聖書を読み始める時、大抵はマタイ伝から順に読み進めて行きますが、マタイ伝の
5章あたりにくると、いわゆる道徳的な内容が出てきます。その内容は、とても道徳的基準が高く、私達には
到底できないような事ばかりが書いてあります。例えば、5章22節を見ると、「理由もなく、兄弟に向かって
怒りを発する者は、誰でも裁きを受けなければなりません。また、兄弟に向かって『馬鹿者』と
言う者は誰でも、火の燃えるゲヘナの中に投げ込まれます」とあります。ところが、私達は普段
当たり前のように怒りを発し、他人に馬鹿者とやじっている者です。また、口で「馬鹿者」と言わなくても、
心の中では絶えず叫んでいる者です。これは、恐ろしいことです。その先を見ていきますと、
5章28節には、「誰でも、情欲の対象として女を見る者は、すでに心の中で姦淫をしたのです」
とあります。思春期になれば、こういう妄想に悩ませられる人は多いでしょう。具体的な行動には
出なくても、心の中でそういう気持ちを持って考えるだけで、それは同じ罪を犯したのだとイエス様は
言われました。これはあまりにもレベルが高すぎます。全能主、イエス様に、心の中までチェック
されたら、私達は完全にお手上げです。ここまで言われたら、自分がどんなに罪深い醜い者かという
事を認めざるを得ません。しかし、そんな中で、5章17節を見ると、「わたしは、律法や預言者を
廃棄するためではなく、成就するために来たのです」とあります。ここを読むと益々、イエス様は
私達が、ここに書いてあるレベルの高い人間になる事を願われ、「イエス様を信じる者は、私達を
そのような理想的な人間にして下さるのだ」と期待してしまうのですが、残念ながら、信じてから
長い年月が経った今でも、ここに書いてあるような人間にはなれていません。となると、「律法や
預言者を廃棄するためではなく、成就するために来た」とはどういう意味でしょうか。ここの正確な
理解は、「私達個人が律法を成就するように」と言われている御言葉ではなく、「イエス様御自身が、律法を
成就する為に来た」という事です。イエス様は全能主の子ですが、罪深いマリヤの肉を荷なって、
この地上に来られました。その罪深い肉を荷なったイエス様が、罪を犯されず、律法を完全に成就
されたからこそ、人間の罪の贖いができたのです。即ち、イエス様は自分自身の罪のために死なれたの
ではなく、「マリヤを通して、人間の罪の肉を背負い、人間の身代わりに死なれた」という事です。
それは、ロマ書8章3節に、「律法にはできなくなっている事を全能主は成し遂げて下さいました。
即ち、全能主は御自分の御子を罪の肉の姿をもって遣わし、私達の罪のために、肉をもって罪を
処罰して下さったからです」とある通りです。即ち、私達の罪深い肉をイエス様が全部荷なって、
私達の罪の報いを身代わりに受け、処分して下さったのです。この救いの完成によって、「キリストは、
・・・戒めの律法を廃棄したのです」(エペソ2:15)。これが福音であり、私達の救いです。しかも、
これはアオリスト形の時制ですから、私達がこの救いを信じる前までの贖いだけではなく、今も、
信じた後もすべて、「過去も現在も未来に渡って、すべてを含めた贖い」をして下さったという事です。
そこまでの救いを、イエス様は一方的な愛によって成し遂げて下さいました。私達がお願いした
わけでも、何か良い行いをしたからという事でもありません。これは、全能主とイエス様の一方的な
アガペーの愛そのものです。こんな救いが有るとは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。
何と凄い事でしょうか。
(転)では、こんな救いを頂いたクリスチャンなら、どう生きて行くべきでしょうか。その生き方は、
マタイ6章30節から出てきます。私達は、地上の生活の事について、「何を食べようか、何を
飲もうか、何を着ようかと、思い煩ってしまいますが、それはやめなさい」と言われています。なぜなら、
私達がこの地上で生きて行くために必要なものは、全能主が初めからご存知で、全て与えて下さる
からです。その事を本気で信じ、「まず第一に、全能主の国と全能主の義を追い求め続けなさい」と
言われているのです。この御言葉は、伝道者や献身者だけに語られている勧めではありません。
信じたすべての聖徒達に平等に語られている内容です。それは、たとえこの地上で自分自身の生活の
ために働いていたとしても、それでも、「全能主の国と全能主の義を第一に追い求めて行きなさい」
と言われています。それは、日頃私達が働いてお給金を貰いますが、そのお金で必要な物を
買う事ができるのは、そのシステムを作って下さった全能主のおかげだからです。ですから、私達は
働くにしても、何をするにしても、まず第一に全能主の事を考え、全能主のために生き、全能主の義を
追い求めるのです。即ち、全能主の御心を追い求め、徹底的に全能主を中心に生きて行く事です。
それが、罪赦された者の生き方です。
(結)全能主は、罪人である私達を贖って下さり、天の御国に入る約束をして下さいました。
ならば、救いは既に完成されているのですから、私達の地上での生き方は、「自分のために生きる
のではなく、自分のために死ぬのでもありません。生きるなら主のために生き、死ぬなら主のために
死ぬのです。生きるにしても死ぬにしても、私達は主のものです」(ロマ14:7~8)。どうか、地上の
事は主にお任せし、まず第一に、全能主の国と全能主の義を追い求めて行こうではありませんか。
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