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2024年9月15日

肉のプライドを砕き、完全降伏し、
狭い門から入り、御国に与る者となる

マタイの福音書 7:13~14、イザヤ書 66:2 他


(起) マタイ7章13、14節、イザヤ66章2節の御言葉には、「狭い門から入りなさい。命に至る門は

狭く、その道は細い」と言われている意味を考え、天の御国に入るためには、「肉のプライドを砕き、

へりくだって心を砕いていく必要がある」
ということについて学んで行きたいと思います。


(承)さて、マタイ7章13~14節を見ますと、「狭い門から入りなさい。なぜなら、滅びに至る門は

大きく、その道は広く、そこから入って行く者は多いからです。しかし、いのちに至る門は狭く、その道は

細く、何と通りにくいことでしょう。それ故に、それを見出す者たちは(わず)かです」
と、あります。

即ち、天の御国に入る者は僅かだという事です。
では、天の御国に入る(わず)かな者とは、一体どういう事

なのでしょうか?
それは、イザヤ書66章2節を見ますと、「わたしが目を留める者は、へりくだって

心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」
とあります。即ち、全能主は、「へりくだって砕かれた心を

持っていない者には、目を留めない」
と言われているのです。このことは、ただへりくだって「自分が

間違っていました」と、赦して貰うために謝って行くことではなく、
「信じた者は、自分のプライドも

何もかも全部捨てた者でないと、全能主の目に留まることはできない」
という事です。
この事は、イエス様が

「自分を徹底的に否定して、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(マルコ8:34)」


と語っておられた事と同じです。この御言葉は、「人は生まれながらに罪人ですから、その事実を認める

のは当然なことで、律法学者やパリサイ人のように、自分の義を主張して、自分の功績によって御国に

入ることは出来ない」という宣言です。ですから、信じた人は、最低限「自分の我を明け渡して
、ジョージ

・ミュラーのように、徹底的に全能主に頼って生きて行くクリスチャンでないと、天の御国に入ることは

出来ない」
ということです。このことを嫌がっているのに、「イエス様を信じています」と言っても、

通用しないのです。私達は、イエス様と共に死んだ者ですから、「もはや、私が生きているのではなく、

自分は完全に罪人だと認めて、イエス様に信頼して従って行く者なのです。」ですから、全能主が目を

留めて下さる人は、へり下って砕かれた心を持ったクリスチャンなのです。
何故かと言うと、もし、僅か

ばかりのプライドを持って天の御国に入ったら、「自分の義を認めてもらいたい、天で報いを受けたい」

という肉を、御国に()っさげて行くことになります。それは、全能主に逆らう下地を持ち込むことに

なりますので、全能主が一番警戒するところです。なぜなら、御国を汚すことになるからです。全能主は、

その心を砕くために、地上で訓練しておられるのです。ですから、肉のプライドを完全に砕かなければ、

私達は御国に入る事はできません。
それが、「いのちに至る門は狭く、その道は細く、何と通りにくい

ことでしょう」と書いてある御言葉の意味なのです


(転)では、その事について、一つの例を通して具体的に学んで行きたいと思います。日本という国は、

戦争で負けた事により、それまで持っていたプライドが完全に砕かれてゼロになりました。即ち、日本の

トップであり、神として崇められていた天皇が、全責任を負い、自分が悪かったと認め、プライドも

何もかも捨てて「無条件降伏」
したのです。しかしながら、天皇が無条件降伏を宣言した後でも、生き残った

兵士達の一部は、「日本国民としてのプライドを表し、本土決戦を覚悟して一矢を報いよう」という意識を

持っていました。ですから、戦争が終わったと聞いても、特攻隊の飛行機は飛んだのです。ところが、

それは自分達が負けた事を認めない行為でした。
だから、その動きを天皇が止めさせ、日本は完全に

お手上げしたのです。それだけでなく、天皇は、「自分の命はどうなってもいいから、日本国民を守って

ほしい」と、マッカーサーに頭を下げてお願いしたのです。全能主は、その天皇の心を好意的に見て、

受け留めて下さっています。
基本的に人間は、「お前は悪い」と一方的に決めつけられるのが嫌で、

僅かばかりの義をたてて、自分のプライドを取り戻し、そこに自分の存在感を(たも)とうとします。また、

「完全降伏したら、自分はゼロになり、生きる事ができなくなってしまう」という恐怖心と、不安感の

虜になって、自分を守れなくなってしまうということへの(おび)えを抱くのです。だから、ゼロだと

認める事から逃げて行こうとします。そして、生まれながらに罪人であるにも関わらず、「自分は100%

罪人であっても、敗北はしたくない」という見栄の中に陥るのです。
それは、中国人と韓国人の反日感情と

同じです。
そんな者に全能主は目を留められません。その者は、どこまでも、自分の面子(めんつ)の中で、

自分が勝とうとしているからです。その者は、最後の白き御座の審判で、「お前を御国に入れる事は

できない。わたしはあなたを知らない」
と、全能主から言われてしまいます。聖書に書いてある通り、

「主よ、主よ、と言う者が、皆天の御国に入るのではありません。」
いのちに至る門は狭いのです。

「全能主は、本当に自分を砕いてきた者だけを天の御国に入れられます。」
自分のプライドを保ちながら、

広い門から天の御国に入る事は決してできません。


(結)ですから、私達の肉は完全に砕かれなければなりません。「肉のプライドを取り戻そうと

したり」、「それを少しでも保ちたい」と願う心は間違っているのです。罪人の肉をいくら(かば)っても、

そこに明るい世界はありません。むしろ、100%完全に罪人ですと認め、無条件降伏した時、

初めて生きる希望がイエス様にあって生まれてくるのです。それは、イエス様にあって生きて行く

新しい命であり、そこには喜びがあります。
この世界に入るかどうかは、自分で決める事なのです。

即ち、100%罪人である事を認めるかどうかは、自分で決める事です。
それを(いや)がるなら、

(いや)
がっても構いませんが、私達は自分で自分の命を作ったわけではありませんから、最後には、

私達の命を創ったお方によって、私達の霊魂は永遠の裁きの場所に立たされます。その後、滅びの

中に投げ込まれるか(マタイ10:28)、
天の御国に入れられる者になるかは、自分次第です。

もし、自分のプライドの中で、全能主に逆らい続けるならば、全能主に対して恨み事を言い、不満を

言いながら、永遠に(なげ)く事になります。私達は、僅かばかりの肉のプライドを(かか)え込み、

それを守って全能主に逆らって行くか、へりくだって心を砕き、全能主の前に本来の自分の姿を

認めて活きるか、二つに一つです。どうか、肉のプライドを砕き、完全降伏して、自分はゼロだと

認めて狭い門から入り、天の御国に与る者とされましょう。


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