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2024年9月22日

『天の御国で輝く良い麦として、
御言葉を聞いて悟る者となる

マタイの福音書 13:24~30、46~43


(起) マタイ13章の毒麦の解き明かしの中から、イエス様が「つまずきとなる者と、不法を行う

者を、ことごとく御国から取り集めて、燃える火の炉に投げ込みます。その時、義人達は彼らの父の

御国で、太陽のように輝きます」
と言われた意味を考え、「天の御国で輝く良い麦として、御言葉を

聞いて悟る者」
となることを学んで行きたいと思います。


(承)さて、13章では、天の御国について、いろいろな譬えで語られていますが、その中で、この

毒麦の譬えでは、40節に世の終わりに起こることが示されています。そして、41節では「つまずき

となる者と、不法を行う者とを、ことごとく御国から取り集めて、燃える火の炉に投げ込みます。

そこでは泣き叫んだり、歯ぎしりをしたりするのです。」
とあります。この御言葉では、「御国から

取り集めて、燃える火の炉に投げ込まれる」
とありますので、「せっかく天の御国に入れられた

クリスチャンも追い出され、ゲヘナに落とされるのではないか」
という誤解を(いだ)き、不安に

()られてしまうクリスチャンもいるでしょう。しかし、この内容は40節と、49節の地引き

網の譬えにもあるように、世の終わりについて書かれてある内容ですので天の御国に入れられて

から起こることではありません。どこまでも、
地上の御国で起こることです。では、この地上の

御国とは何かと言いますと
、それは使徒行伝1章6節で、使徒達が「王国を復興されるのは、この時

なのですか
」と聞いている地上の御国のことです。ユダヤ人たちは、地上で成就するダビデの王国を

「御国」と考えていましたので、御国は「地上の御国と、天の御国」の二つの別々の意味があるの

です。その内、イエス様は、世の終わりの起こる譬えの中で「御国から取り集めて」と、語られて

いますが、それは、まだ天の御国の中に入れられていない、地上の教会の集まりの中にいる「御国の

子等」のことで、「良い麦とは天の御国に入れられる子等」のことであり、「毒麦とは、キリストを

信じた者達の集まりの中に混ざっていた、悪魔の側につく悪い者の子等」のことです。これは実際に

ある事ですが、
イスカリオテのユダも、イエス様に選ばれた十二弟子の一人でしたが、その彼は

「悪い者の子等」でした。ですから、イエス様を裏切る毒麦であったのです。イエス様は「そういう

背教者が、終わりの日に取り集められて、燃える火の炉に投げ込まれる」という事を語っておられ

たのです。そこで、こんなリアルな内容を読むと、「もしかしたら、自分もそうなるかもしれない」

と、不安に思うクリスチャンもいるかも知れませんが、今はまだ心配する必要はありません。

なぜなら、本物のクリスチャンになる可能性が十分あるからです。しかし、現実は、クリスチャン

であっても、本当に御国に入れてもらえると、確信して喜んでいる人は少ないのです
。ですから、

主の警告が語られ、本物のクリスチャンになるように、良い麦とされなければなりません。

なぜなら、私達は皆、心の中に罪を抱え込んでおり、不法を行う者として、「お前なんか信じたって

罪人のままだろう。それで本当に救われていると言えるのか」
という悪魔のささやきが聞こえて

くるからです。その声を聞いて、
「自分はこんな罪人のままではダメだ。良い人間にならなければ」

と律法的になって悪魔の罠にはまってしまいます。しかし、「果たして本当に良い人間になれるのか」

というと、聖書の基準にはとても近づける者とはなれません。それは、イエス様の救いに預かった

からといって、私達が聖書の基準に沿う人間として、ガラッと変わってしまった訳ではないから

です。私達は信じる前に自分の中に持ち込んでいた魔物を、尚(かか)え込んでおり、罪人のままで

この世を過ごさなければならないからです
その理由は、旧約聖書の申命記8章2節の中にあり

ます。「あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心の内に

あるもの(信仰)を知るためであった」
とあるように、私達は信じてからも、罪人の肉を持った

ままで、この世を通させられますが、それは、その心の内にある信仰が本物となるために、全能主の

訓練があるからです。すなわち、信じた者が、肉の中に潜む魔物の誘い掛けによって不信仰に

なるか、或いはヨシュアとカレブのように信仰に立ち、最後まで本気で全能主を信じ続けて行くか

どうかを、全能主は見ようとされているのです


(転)では、最後まで本気でキリストを信じ続けて行くために必要な事は何でしょうか。それは、

良い人間になるとか、正しい行いをする事ではなく、むしろ、自分は100%罪人ですから、

「どこまでも、イエス様を信じる信仰によって、主に信頼し、主に成し遂げて貰う」
という生き方を

本気でして行くことです
。ですから、まず100%罪人であることを認める事は当然のことですが、

この当たり前のことが、一番難しいようです。なぜなら、
人間は、自分の罪を認めたくない心を

持っているからです。
信じてからでも、自分の罪を認めなければ、自分に頼って生きて行くことに

なります。そして、イエス様の贖いを軽んじることになって行くのです。この地上の教えでは、

「たとえ100%罪人であっても、一生懸命努力して、ダメな自分を返上して行くのだ」
と教えられ、

その努力は正しいと思わされて来ました。しかし、それは
悪魔の罠です。私達は、「全能主の御心に

(かな)
った人間になろうとする努力さえできない」
という事実を認めるべきです。しかしこの努力を

放棄すれば、
「全能主から罪人扱いをされ、捨てられてしまうのではないか」という不安に駆られ

ます。しかし、それも悪魔の罠です。実際問題、私達は生まれた時から魔物を抱え込み、罪を犯し

続けてきた者です。そんな罪人が、自分に頼って何ができるでしょうか。全能主に受け入れられる

人間になる努力を、一生涯続けて行ける自信があるのでしょうか
「それはできない」という現実を

正直に認めて、お手上げするべきです。
そして、「自分では、もうどうにもなりません」という所に

至った時に、初めて「イエス様のアオリストの贖いだけが、よりどころである」ということが分って

くるのです。即ち、自分の努力が、救いの根拠になるのではなく、キリストの贖いが、救いの根拠

だということです。
自分が100%罪人であるということは、キリストを信じた後から分かってくる

ことです
。ですから、「もう自分に頼り、自分に望みを置いて生きて行くのではない。イエス様に

あって自分は生かされて行くのだ」
と、悟り切ることです。それなのに、私達は10%、20%の

自分の義で、一生懸命正しい人間になろうとします。そこでもし、その功績を()()げて天の

御国に入ったとしたら、どうなるでしょうか。その(わず)かばかりのプライドによって全能主に

認めて貰おうとし、自分の義を表そうとするのではないでしょうか。すると、全能主は、そんな者を

天の御国に入れておく事はできませんので、地上にいる間に、世の終わりの時に()り分けて、

天の御国にふさわしい者だけを迎え入れられるのです。
このように、天の御国に入れられる「良い

麦」とは、信仰に立ち自分の義を立てない者です。
この真理を毒麦の譬えから学んで下さい。


(結)こういう訳ですから、自分の肉の努力や、熱意が全能主に受け入れられる大切な部分だと

思ったら大間違いです
。私達は、そんな努力もできないような罪人で、ゼロの者です。自分の

中からは何も出てきません。完全にお手上げです。罪人の努力は、キリストに在って初めて実を

結ぶものです
どうか、こんな罪人に救い主を下さった全能主に感謝しましょう。そして、「キリ

ストに在る良い麦とは、完全にキリストにより頼んだ者」
のことです。ですから、「この義人達は、

天の父の御国で、初めて太陽のように輝くのです」。
どうか、天の御国で輝く良い麦として、

御言葉を聞いて悟る者とされましょう。


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