2024年9月29日
『信仰の一丁目一番地』
マタイの福音書 13:24~30、36~43
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(起) ロマ書1章18節以降の御言葉から、「被造物である私達には自由意思はあっても、命の主権は
ない」という事を自覚し、「全能主に全ての主権を明け渡すこと」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、今日はまずロマ書を通して、「私達人間の命というものが、何故、どのようにして存在した
のか」という事について考えてみたいと思います。今お読みした聖書の御言葉の中に「全能主」とあり
ますが、これは一般に言う「神」の事です。しかし、聖書では「神」という言葉を使っていません。なぜか
というと、「神=人間のしもべ」という感覚があるからです。それはどういう事かと申しますと、私達の
周りには、学問の神、商売繁盛の神、家内安全の神など、様々な神々がありますが、その神々を造ったのは
人間であり、「困った時だけの神頼み」という、人間が御利益を求める気休めの神に過ぎません。ですから、
神社・仏閣で手を合わせて拝む「神」は、願いを叶えて貰うための都合のいい「しもべ」と言えます。
理に適っていません。ところが、聖書に書かれているのは唯一絶対、全知全能の「全能主」です。そのお方は、
私達人間を含め、世界の全ての物を創られ、その創られた被造物を見れば、全能主の存在は、明らかに
証明されると語っています(ロマ1:20)。そこで、人間の体の仕組みを見て行きますと、人間は、
初めはたった一個の0.2ミリの受精卵です。その一個の細胞が60兆個まで増え、人間の体を造り上げて
行くのですが、その仕組み(設計図)が、0.2ミリの細胞の中の核という物の中に入っています。
その設計図に基づいて、それぞれの細胞がそれぞれの器官を造り、きちんと秩序の伴った人間の体の
各器官を生み出しているのです。もし、設計図無しで、偶然に組み立てられたとしたら、目が三つの人や、
鼻が下の方にある人など、お化けができてしまうでしょう。ところが、そうならないように、一つ一つの
細胞が、「お前は目を造れ」「お前は鼻を造れ」「お前は心臓を造れ」と指令を受けて組み立てているの
です。その設計図を創る事ができるのは、唯一絶対な全知全能のお方しかあり得ません。というのは、
私達の命は、決して偶然に存在したものではないからです。即ち、私達は全能主によって創られた被造物で、
「全能主が私達の命の主権者」なのです。
(転)では、それが分かったら、私達は命の主権者に対してどのような意識を持ち、どのように生きて
行けば良いのでしょうか。それは、自分が主人公として生きて行くのではなく、自分を創って下さった命の
創造主の下で生かされている事を認め、自分の自由意思によって、主権を明け渡すことです。「私達が、
自分の力で生まれ、自分の力で生きているのなら、死も自分の思い通りになるはずですが、そんな訳には
いきません。」この命は、自分のものであっても、自分の思い通りにはならない現実があります。即ち、
人間は遺伝子の中に組み込まれた設計図によって造られており、2024年度の世界人口は82億人に
上りますが、その中で同じ人間は二人といません。全て個々の遺伝子の中に個々の設計図があって、
82億の手の指紋があるのです。その指紋によってスマートフォンでは、個人認証がされます。もし、
人間が偶然の進化の産物であるなら、同じようなものが幾つも存在し、デタラメな体の仕組みになることで
しょう。しかし、人の体には、厳然たる仕組みが存在するが故に、病気の治療制度が成り立つの
です。皆さんこの驚くべき事実をどうみるでしょうか。こんな秩序がある仕組みなら、叡智ある全能
主によって創られた命であるとしか考えられません。しかも、私達は自由意思を持つ存在として創られた
命ですから、私達の自由意思を以て、自分の主権を全能主にお委ねすべきではないでしょうか。私達に
命の主権はないのですから。それなのに、創られたものである事を無視し、全能主に対して、当たり前の
ように御利益ばかりを求めるなら、「お前はわたしを利用するのか」と、全能主から退けられます。しかし、
「私は全能主によって造られた命です」という事を、自覚と弁えを持って、へりくだって行くなら、
全能主も心をかけて下さいます。それは、今回の通読の中に出てきたツロの女の記事(マタイ15:21~
28)を通しても学ぶ事ができます。彼女はイエス様に自分の娘の癒しをお願いしましたが、イエス様は、
「私はイスラエルの家の失われた羊以外には遣わされていません。子どもたちのパンを取って小犬に投げて
やるのは、よくないことです」と言われ、はっきりと拒否されたのです。しかし、彼女はそのイエス様の
言葉を、心を開いて受け留め、「主よ、お言葉通りです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは
頂きます」と言いました。それは、「確かに、自分は異邦人で、イスラエル人ではありませんが、落ちた
パンくずなら頂けるのではないでしょうか。私はそのおこぼれでいいのです」と、彼女は、自分の願いを
押し付けたのではなく、むしろ、自分の我を砕いて下手に出ました。それは、彼女の内に、主権者を全能主
として認める心があったからです。イエス様は、その彼女の心を見て、「女よ。あなたの信じ仰ぐ心は
見上げたものです。あなたの願い通りになるように」と言われたのです。そして、全能主は全ての人間が
彼女のような下手に出る心、しもべの姿勢を持つなら、喜んで私達の願いを聞いて下さいます。
(結)私達は、自分で自分の命を造ったのではなく、全能主が私達の命を造って下さったのです。
その事が分かった時点で、私達に主権はありません。主権は、私達の命を造られた全能主にあります。
ですから、たとえ自分の思い通りにならなくなったとしても、それでも徹底的に全能主に従って行く
立場にあるのです。腹を立てたり、文句を言う立場にはありません。私達は、ただへりくだって
従って行くのが当然の者です。この土台が、私達の「信仰の一丁目一番地」です。どうか、今日、
自分に主権はないという事をもう一度自覚して、全能主に全ての主権を明け渡すことを始め出し
ましょう。そして、全能主に喜ばれるしもべとなって行こうではありませんか。
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