2024年9月1日
『研ぎ澄まされた信仰』
~全てをイエス様に懸けて行く事の幸い~
ヨハネの福音書 15:16
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(起) ヨハネの福音書21章18節「あなたが若かった時には、自分で帯を締めて思いのままに歩き、
動き回っていました。しかし年を取ってからは、自分の両手を伸ばし、他の人があなたに帯を結びつけ、
あなたの行きたくない所へ連れて行きます」という御言葉から、「私達の研ぎ澄まされた信仰によって、
全てをイエス様に懸けて行く事の幸い」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、18節の御言葉を説明します。ペテロの若い時は、体の自由が利きましたから「こうしたい、
ああしたい」という目標を掲げ、そこにエネルギーを注いで行く事ができました。しかし、年を取ると、
自分の思い通りに体が動かなくなり、人に助けてもらったり、介護をお願いするようになります。すると、
自分の思い通りの行動が出来なくなり、他人に従うしか仕方のない状況になって行きます。そんな中に
置かれると、たとえ自分が行きたくない所であっても「行きます」と、素直に従わざるを得ません。
すなわち、イエス様がペテロに伝えたかった真意は、「誰でも、わたしについてきたいと思うなら、自分を
徹底的に否定して、自分の十字架を負って従って来なさい」という献身の心だったのです。なぜなら、
献身とは、命を懸けて行く事だからです。ですから、イエス様は前もってペテロに対して「わたしを、
アガペーの愛で愛しますか」と問われ、ペテロに「本気で自分の命を捨てて、私に従って来ますか」と
「無条件の愛を問われたのです。」イエス様はペテロに、「どうしてそこまで本気の心を求められたのか」
と言いますと、「もし人々が、わたしを迫害したなら、あなた方をも迫害するでしょう。」(ヨハネ15章
20節)また、「人々はあなた方を会堂から追放するでしょう。そして、あなた方を殺す者たちが、
皆それによって自分は全能主に仕えているのだと思う時が来ます。」(ヨハネ16章2節)という迫害の
時代が来ることを知っておられたからです。というのは、ペテロの召しが「一粒の麦が地に落ちて死なな
ければ、それは、ただ一粒のままです。もし死ねば、多くの実を結びます。」(ヨハネ12章24節)
という、殉教者としての使命だったからです。ペテロがその使命に応じていくためには、どこまでも自分を
砕いて、自分の命を懸けて行く心が必要であったのです。それは、決して「人の歓心を買おうと努めていく
もの」ではありません。なぜなら、イエス様は、ペテロがヨハネと比べて「この人はどうですか」という
問い掛けに対して、「それがあなたに、何の関わりがありますか、あなたは、わたしに従って来なさい」と、
ペテロに対して人と比べようとする生き方を完全に否定されました。それは、目に見える地上の利害
関係で判断して、「イエス様を知らない」と言ったペテロの言葉に対する厳しい戒めでもあったのです。
即ち、「他人は関係ない。あなたは、わたしに従って来なさい」という事をペテロに諭そうとされたの
です。この教訓は、私達の信仰に対しても言われていることです。信仰とは、地上の人間との結びつき
ではなく、「自分が信じたイエス様との個人的な結びつき」でなければならないからです。その中にあって、
「自分が行きたくない所にも行き、したくないこともする」という従順を、命閉じる時まで現して行く事が
「私達の研ぎ澄まされた信仰のあり方」であるからです。
(転)では、純で、研ぎ澄まされた信仰を始め出すためには、どうしたら良いのでしょうか。それは、
完全に行き詰まった自分自身の状態をまず知る事です。聖書には、「私達の罪はいつも自分の目の前に
あります」とあります。ですから、自分の罪を誤魔化すことは出来ませんし、その罪を自分で取り除く
事もできません。また、自分の力では、自分の罪をどうする事もできません。だから、お手上げするしか
ないのです。そういう罪人だという事を、はっきりと自覚させられた時、私達は落ち込み、逃げ出したく
なりますが、そんな時に「キリストが、罪の代価を払って下さった」という福音を聞いたら、どうでしょうか。
「イエス様の身代わりの死によって、私たちの罪が完全に十字架に釘付けにされ、無効にされている」
という、とんでもない恵みを知るのです。すると、「自分が自分の罪を背負って死ななくてもいいのだ」
と分かって、その恵みに、感謝があふれるでしょう。そして、イエス様のアガペーの愛に心が繋がります。
また、イエス様を送って下さった全能主の愛に心が繋がります。そこから、「自分の命は主にお委ねします」
という本気の心で、全能主とイエス様に懸けて行く信仰が始まるでしょう。しかしながら、ペテロのように
自分の罪というものを意識しないなら、罪を指摘されても他人事のように受け流して行き、怒られても、
それで落ち込んだり悩んだりしません。そういう人は、自分自身の罪の問題をどこまでも曖昧にして、
本気で救いを求めることはしない人でしょう。それでは、イエス様と永遠に結びつきません。すると、
その人は死ぬまで自分自身の罪を背負い、罪の解決もないままで、命を失うのです。その後に行く所は、
好むと好まざるとに関りなく、命を創られた方の「制裁の場」に立たされます。何故なら、自分の
命は自分が創ったものではないので、命を与えた方が、その人の曖昧にしてきた罪の人生をさばき
ます。そして、私達はその方の前で一つ一つの生涯の罪に対して、申し開きをしなければなりません。
その審判では、もう、「後悔、先に立たず」です。それは、その人の生き方に報いを与える、永遠の罪の
裁きが行われる場だからです。ですから、私達は、自分というものが完全に否定され、「自分ではどうにも
ならない、自分の力では乗り越えられない、その自分を変える事もできない」という行き詰まりを思い
知ったならば、イエス様と結び着く事が出来る恵みに目を向けるべきです。すると、心からの涙を持って、
感謝が溢れ出て来るでしょう。すると、「当然イエス様に懸けて行く」という純な生き方が始まって
来ます。これが私達の経験すべき、研ぎ澄まされた信仰なのです。
(結)どうか、この事に目覚めて下さい。どうする事もできない罪、肉の性質というものは、誰もが
抱え込んでいるものです。信じる前は、それに対する答えを出す事ができませんでした。しかし、
イエス様と出会った時に、その答えが見つかったのです。ならば、このイエス様から離れてはいけま
せん。どこまでもイエス様と結びつき、最後の最後まで、このイエス様に命を献げて従って行って
下さい。どうか、残りの生涯、この研ぎ澄まされた信仰を全うし、イエス様に命を懸けてきた幸いを、
天の御国で味わわせて頂こうではありませんか。
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