2024年8月25日
『肉の妨げを砕いて、イエス様にお任せしていく信仰道』
ヨハネの福音書 15:16
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(起) ヨハネ15章16節にある「あなた方がわたしを選んだのではありません。わたしがあなた方を
選んだのです。そして、あなた方を任命しました」という御言葉から、肉の妨げを砕いて、イエス様に
お任せして行く、信仰道を学んで行きたいと思います。
(承)さて、私達は子供の頃から自分の意志を持ち、いつも自分の我を通して、自分の損得で選択して
来ました。ですから、キリストを信じるという時も、自分の意志で決めたつもりでいました。ところが、
聖書を見ると、「あなた方がわたしを選んだのではありません。わたしがあなた方を選んだのです」と、
逆の言い方がされています。これは、私達にとって驚きです。なぜなら、「イエス様によって選ばれた」
という事は、主導権は私達にはなく、選んで下さったイエス様に主導権があったということになるから
です。そうであるなら、私達の主体性は「本来は有るようで無い」ということになり、「自分の意志で
生きて行くのではなく、選んで下さった方の意思に従って生きて行く」ということになります。これは、
天地がひっくり返る真理です。ということは、もう、「自分に出来もしないことを、我を張って無理する
必要はなく、ただ、主にお任せして生きていけばいいのだ」ということになります。これは、何と重荷が
取り去られる生き方でしょう。そして、更に次の御言葉に進むと、「そして、主が任命しました」と
あります。主が私達を任命して下さったという事は、私達の自己推薦ではなく、主の主権によって任命
されて、用いられて行くということですから、「全部イエス様の全権のなかで、主が責任を持って成し
遂げて下さる」という一事に尽きます。そうであれば、人の出しゃばる余地はありません。全ての
ことは「人の力で実を結ぶのではなく、主が実を結ばせて下さる」のであって、「主が成そうとする
ことを、主に預けた単純な信仰のあり方」で、働かせて貰えばいいという事が見えてきます。即ち、
「信仰とは、身勝手な自分の思いを『ごちゃ混ぜ』にして、自分の願いを実現するものではない」という
ことです。そんな信仰は、全能主を利用しょうとすることで、全能主が一番嫌われる事です。あくまでも
私達は選ばれた者ですから、主体性は選んで下さったイエス様にあります。ですから信じた時点で、
私達は自分の肉の我から離れなければなりません。未信者時代は、自分の思いを優先し、自分の意志で、
自分の考えを成し遂げようとして来ました。しかし、信じてからは、私を選んで下さったイエス様に
主導権を預けた生き方で、イエス様の為に実を結ぶ働きに替えて行くのです。
(転)しかしながら、私達はその切り替えが、なかなかできないのです。それは何故かと言うと、生まれ
ながらの肉の性質の中にあるからです。もし、信じたと同時に肉の性質が消えてしまっていたら、イエス様
一本の心を持って、信じ続けて行けるでしょう。しかし、残念ながら肉の欲求が消えておらず、どうしても
自分の思いが出て来て、自分が主体性を握って、自分の都合で物事を考えてしまうという、我の強さが
残っているのです。それでは、イエス様にお任せして行くことができません。では、私達はどうしたら
良いのでしょうか。それは、ロマ書8章12節を見ますと、「私達は肉にあって生きていても、肉の性質に
従って生きる義務を負っていません」とあります。即ち、それは「肉の性質に逆らっていい」という事
です。何故かと言うと、ロマ書8章3節に、「肉の性質の故に無力になったため、律法にはできなくなって
いる事を、全能主は成し遂げて下さいました。すなわち、全能主はご自分の御子を罪の肉の姿をもって
遣わし、私達の罪のために、肉をもって罪を処罰して下さったからです」とあるからです。どういう事かと
いいますと、「全能主がイエス様を通して、私達の肉を処罰して下さった」のですから、そのアオリスト
形の救いの中で、イエス様を中心に生きて行きなさいということです。即ち、「既に私達は肉から解放
されている」のですから、私達は自分の肉の性質に従って生きる義務はなく、自分の肉に対して逆らって
いいということです。ところが、現実の私達は、肉にあって生きている者ですし、私達の内には魔物さえ
存在している事も事実です。それでは、とても肉に逆らってイエス様を中心に生きて行くことは出来ま
せん。しかし、それでも私達はその肉の性質に逆らって、主を信じる生き方を通して行くべきなのです。
即ち、自分の思い通りにしょうとする肉の思いから離れて、反抗する肉の性質を砕いて行くのです。
例えば、肉的になると、人に反発し、言い訳をしたくなる反抗の精神が出てきますが、その反発する心を
砕いて相手の側に立って聞いて行くなら、相手の心が分かり「その通りだ」と思えてきます。すると、
「自分のことを思って言ってくれているのだ」という事が分かって、感謝と素直さが生まれてきます。
そこで私達は、我を砕いた平安を味わうのです。
(結)「私達は肉にあって生きていても、肉の性質に従って生きる義務を負っていません。」
どうか、この生き方を実践の場で具体的にやり始めて下さい。しかし、何といっても、私達は
生まれながらの肉の欲求がなくなったわけではありませんので、肉を無視することは日常的に
難しいのも事実です。それでも、肉に対して上手に戦っていかねばなりません。その肉の戦いは、
罪とは関わりのない正しい遣り方で、肉を無視して行くしかありません。その方法は、信仰の
妨げにならないスポーツなどで発散するとか、或いは罪に陥らない方法で「発散の方法」を選ぶの
です。いくら御霊の助けがあっても、肉を無くすことは出来ませんので、正しい方法でストレスが
解消されていく必要があります。そうでないと、心は自由になりませんし、健全な心で主に向う
こともできません。これが教えられていないと、クリスチャンはストレスの塊となって、極端な
罪の道に誘われてしまうのです。もし、律法的に肉のストレスを押さえ込んでも、かえって肉の
反逆が起こって来て、信仰から離れるという罠に陥ることになります。律法は、人を罪の中に
閉じ込めるだけです。それが、イスラエル人が味わったことです。基本的に救いは、天の御国で
成就します。ですから、肉の妨げは、命閉じる時まで続きます。その為に、如何に信仰の道を
乗り切って行くかに掛かっています。どんなことがあっても、肉の妨げで信仰を失ってはいけま
せん。もし、罪に陥ったなら、悔い改めて、肉を砕いて信仰に戻りましょう。全能主は、肉を砕いて、
遜りを学んだ者を御国に入れたいと願っておられるからです。その為に、肉を砕いて行く訓練は
大切です。どうか、何があっても、肉の妨げを砕いて、イエス様にお任せして行く道に邁進して
行きましょう。イエス様が私達を選んで下さった主導権の御陰で、救われる者となったのですから。
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