2024年8月18日
『反発、反抗の心を砕き、
従順に主にお従いしていくこと』
民数記 25:1~9
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(起) 民数記25章1~9節と、ヨハネの福音書11章1~46節から、「反発、反抗の心を砕き、
従順に主にお従いして行く事」を学びたいと思います。
(承)全能主は、全人類の中から「イスラエル民族」を選び、彼らを通して、全世界に御自分の存在を
証ししようと考えておられました。ですから、全能主はイスラエル人に対してはかなり厳しく、少しでも
全能主に反発し、背を向けたなら、容赦なく彼らに報いを与えています。今回お読みした民数記25章
でも、偶像を拝む者たちを裁き、唯一絶対の全能主の存在を明らかにされました。しかしながら、
この時には全能主に反抗した者であっても、その罪を悔い改めるなら、その者は赦され、死から免れる
という恩情が与えられています。とはいえ、旧約時代の赦しというものは、どこまでいっても全能主の
みこころ次第であり、ただその時に死なずに済むというだけで、永遠の救いではありません。しかし、
新約に入ると、イエス様は十字架の死を通して永遠の贖い「キリストは諸々の罪のために、一つの
『永遠に有効な生け贄』を献げられた。」(ヘブル10:12)を成し遂げて下さった為に、旧約の
ように、単なるその時だけの罪の赦しではなく、「永遠に有効なキリストの生け贄」のゆえに、二度と
裁かれることのない、永遠の罪の赦しを受けるのです。ですから、一度イエス・キリストの罪の赦しを
受けたなら、その後に、たとえ罪を犯したとしても、度毎に悔い改めて罪を清めて下さったならば
(第Ⅰヨハネ1:9)、それは、永遠に死から免れる赦しであり、二度と不安に怯えることが
ない赦しなのです。しかも、この救いは、アダム以降の全世界の人のために(第Ⅰヨハネ2:2)あるの
です。例えば、生きている間にイエス・キリストと一度も出会わず、福音を一度も聞かずに命を閉じて
行った人は全世界に大勢います。しかし、そういう人でも十字架上の強盗のように、「私は、自分の
罪の故に裁かれて当然の者でした」という砕かれた心を表せば、「全能主がその人の内に、悔いし砕か
れた心」を見て、キリストと共に、その者をパラダイスに上げて下おられます。それは、「砕かれた
悔いし心を、全能主は軽んじない」と言われているからです。また、イエス様は、全人類の歴史の
ど真ん中に来られて、自然を含む全被造物の贖いを完成されました。この贖いの真理は、人のための
行為というよりも、人の罪を赦そうとする全能主自身の心の根拠にするためのものであったのです。
ですから、こんな凄い救いを、全能主は私達に示して下さっているのです。
(転)では、これらの事を理解し受け留めた上で、私達が全能主の前に持つべき大切な心とは、何で
しょうか?それは、「悔いし心」です。「悔いし心」を言い換えて表現すると「罪人である自分には
全く信頼できませんが、イエス様には全幅の信頼を置いて従います」という遜りの心です。即ち、
「イエス様に対して完全に信頼し、完全にお任せする」という心です。このお任せする気持ちがあれば、
たとえ自分の思い通りにならなくても、反抗の心は表さない筈です。即ち、こちらの都合で反発せず、
どこまでもイエス様の御心に合わせて、どんな結果も受け留めて行くという事です。その例として、
ヨハネの福音書11章では、マルタとマリヤは、兄弟ラザロが死んで、イエス様が来られた時、
二人が同じように「主よ。もしあなたがここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったで
しょうに」と、反発めいた不平を口にしました。この言葉は、「なんで早く来て下さらなかったの
ですか」という反発の精神です。もし、彼女達がこの反発の心を砕いていたなら、こういう恨みがましい
言い方はせず、むしろ、「主よ!私の兄弟は今死にました。御心を成し遂げて下さい」と、兄弟の死を
受け止めて、主に委ねた言い方もできた筈です。もし彼女達がそうしていたら、イエス様も激しい
苛立ちを持たれる事なく、「あなた達の信じる心があるのなら、見ていなさい。ラザロを甦らせるために、
わたしは来たのです」と、穏やかに返答して下さった筈です。それは、私達の中の反発の精神を
砕けば、イエス様も穏やかになられるからです。ですから、むしろ、砕いた言い方をして行けば、
ストレスを受けることがなくなり、不満の心は取り去られて、イエス様に対して完全に信頼し、お任せ
する心が湧き出てくるでしょう。これが、本来のあるべきクリスチャンの信仰のあり方です。これが、
「主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」という信仰に立った生き方を実現して行く、信仰の秘訣です。
(結)こういう訳ですから、私達は反発の精神を砕き、全能主の前に一層従順にお従いして行き
ましょう。(ピリピ2:12)。この生き方には、もう自分のプライドはいりません。しかし
ながら、この世の仕事をして行く中では、簡単に反発の心が出てしまうでしょう。ですから本物の
信仰を目指すなら、頭だけの理解ではなく、日常生活の中で「反発の心を砕いていく」という
決断の心の伴った、行いの信仰が必要なのです。ということは、私達のプライドは、遜りの敵です。
私達は、たとえ失敗し、罪を犯すことがあったとしても、それを悔いて行くなら、イエス様の
アオリストの贖いの故に、永遠に死ぬ事のない世界に入れてもらえるのです。ならば、どこまでも
「悔いし砕かれた心」を持って、主に信頼して行きましょう。そうすれば、主が私達を導き、
事を行わせて下さいます(ピリピ2:13)。ですから、「全て自分で握らず、主にお任せし、
お委ねして、従うのです。」どうか、反発、反抗の心を砕き、従順に主にお従いして行こうでは
ありませんか。
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