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2024年8月11日

自分の罪を自覚し、反抗の霊を砕いて、実践し、
悔いし砕かれた心の信仰が通用する確信を掴む

民数記 21:1~9、ヨハネの福音書 8:1~11


(起) 民数記21章の「蛇を仰ぎ見て救われる」という記事から、「自分自身の罪を自覚し、反抗の霊を

砕いて、その実践をし、自分の悔いし砕かれた心の信仰が通用する」
という確信を掴んで行こうと思い

ます。


(承)さて、第Ⅰコリント10章6節には、「旧約聖書に書かれている内容は、今日(こんにち)の私達に対する

警告です」とあります。それはどういう警告かと言うと、全能主に対して反抗の霊を表し反逆したら

私達は裁かれて終わりだという事です
ですから、私達の内にある反抗の霊は、絶対に砕いておかなければ

いけません。
今回お読みした民数記の箇所では、民がまた全能主とモーセに対して逆らい、身勝手
な事を

つぶやいています。すると、全能主が怒って蛇を送り、多くの人々がその蛇にかまれて死にました

それで、民は悔い改め、「どうか、蛇を私たちから取り去って下さい」と願いました。すると、ヤハウェは

「燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と

言われたのです。蛇というと、サタンの象徴です。何故、全能主はサタンの象徴である蛇を仰ぎ見させた

のでしょうか。
それは、全能主の怒りをこの燃える蛇を通して示し、「自分達はこの蛇に従って全能主に

逆らった罪人である」
という事を自覚させるためでした。即ち、全能主は、そのように自分自身の罪を

自覚し、反抗の霊を砕く者を求めておられたという事です


(転)しかしながら、新約の時代になった今は、自分の罪を自覚して、反抗の霊を捨てるならば、その罪を

赦して頂くだけでなく、永遠の償いをして下さったイエス様の故に、「永遠に死から(まぬが)れて、永遠に

滅びることがない救い」
を与えられるという事が教えられています。それは、キリストの救いがアオリスト形

だからです。「今、現在の私達が罪を犯さない人間になったから」ということではなく、イエス様の十字架

の贖いが、永遠に及ぶ救いだったからです
。この事実の故に、罪を赦されて、死を免れるだけでなく、

「天の御国に入れられる救いである」ということです。そして、「イエス様は死んだままではなく、

甦って、今も生きておられます。」
という事は、私達はそのイエス様に頼って生きて行く事ができるの

です。例えば、ヨハネの福音書8章1~11節に記されている、
姦淫の現場で捕えられた女も、自分自身の

罪を自覚し、悔いし砕かれた心を持って、生涯イエス様に懸けて行った女の一人です。律法学者、パリサイ

人たちは、彼女を姦淫の現場で捕え、イエス様の所に連れて来て、石で打ち殺そうとしていました。

ところが、イエス様は、「あなた方の中で、罪のない者が、まず最初に石を投げつけなさい」と言われ、

誰も彼女を罪に定める事はできないという事を明らかにされたのです。そして、彼女に対して、「わたしも、

あなたを罪に定めません。行きなさい。今からは、もう罪を犯してはなりません」と言われました。

彼女は、自分に対してそのような見方をして下さるお方に出会った事によって、「本気で自分の罪を自覚し、

『もう同じ(てつ)は踏みたくない。ここに留まりたくない。むしろ、このお方に従って行きたい』という、

悔いし砕かれた心を持った」
のです。そして、イエス様にお仕えし、一緒に旅をするようになりました。

その時、周りの人々からは、「あいつは姦淫の女だ」という目で見られていたでしょう。しかし、彼女は

「そう言う人たちを(にら)み付けて反抗心を表して行った」のではなく、むしろ、「砕かれた心を持って、

平安と安らぎの中でイエス様と一緒に歩んだ」
に違いありません。私達も、彼女と同じような扱いを

受けた者であることを自覚する必要があります。
即ち、言い逃れのできない罪人である自分を自覚すること

です
。この自覚のない人は、「責められると、直ぐに自分を守り、反発し、とぼけようとします。」

ですから、この罪深さのために、私達は「わたしはあなたを罪に定めない」と言って下さるイエス様に、

献身の心が沸いてこないのです。本来、このアオリストの救いは、完全な罪の赦しですから、消える事は

ありません。それが分かったら、マグダラのマリヤのように、献身の心が吹き出して、イエス様に従って

行こうとするのが、自然な心の動きです。
それが救いを与えられた本当のクリスチャンの生き方ですから。


(結)この世では、「皆が自分の身勝手な思いを当たり前のように表し、そうする事が正しい」

とさえ思っています
。しかし、「自分は散々罪の中にあって苦い経験をして来た者ですから、

もうそういう生き方は嫌だ」と、後悔したなら、旗竿を見上げて「自分達はこの蛇に従って全能主に

逆らった罪人である」
と自覚して行くでしょう。そして、反抗の霊を砕いて行く生き方を「具体的」に

実践して行くでしょう。「具体的」という事は、教会に来ている時だけでなく、「世に出て未信者の

世界に入って行った時に、その信仰を実践する」という事です。これは、実践しなければ自分の

ものとなりません。
どうか、「自分自身の罪を自覚し、反抗の霊を砕いて行く実践を通して、自分の

悔いし砕かれた心の信仰が通用する」
という確信を(つか)んで行こうではありませんか。


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