2024年8月4日
『生まれながらに持っている反抗の霊を砕いた上で、 キリストの贖いを受け取り、本物の救いを味わう』
民数記 20:1~13
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(起) 民数記20章より、全能主に反抗した民の記事を通して、「生まれながらに持っている反抗の霊を
砕いた上で、イエス・キリストの贖いを受け取り、本物の救いを味わって行く事」を学んで行きたいと
思います。
(承)さて、民数記を読んでいると、民が全能主に対してつぶやき、反抗する様子が毎回のように出て
きます。今日お読みしたところでも、3節では「ああ、私達の兄弟たちがヤハウェの前で死んだ時、
私達も死んでいたのなら」とつぶやいています。「私達の兄弟がヤハウェの前で死んだ時」というのは、
先週学んだ、コラ達がモーセに逆らった時の裁きを指しています。その裁きの時、ヤハウェはイスラエル
全部を裁く事はなさらず、「コラ達から離れなさい」と言われて、コラの部族以外の者は引き離され、
守られたのです。それにも拘わらず、「私達の兄弟たちがヤハウェの前で死んだ時、私達も死んで
いた方が良かった」と、実に身勝手な事を言って、ヤハウェに反抗しました。このように、人間は自分の
思い通りにならないとすぐに腹を立てて反抗し、文句を言い、逆らう気持ちを出すのです。この「反抗の
霊」が、人間の心の中に入っているからです。
(転)しかしながら、聖書をよく読んで行くと、「全能主があえて蛇を使って、人間の中に反抗の霊を
持ち込ませ、人間を罪の中に閉じ込めた」という事が、見えてきます。ガラテヤ3章22節を見ますと、
「律法はすべての人を罪の下に閉じ込めました。それは、約束が、イエス・キリストを信じ仰ぐ心に
よって、信じる人々に与えられるためです」とあります。「罪の下に閉じ込めた」というと、アダムと
エバを思い出しますが、彼らは蛇によって唆され、食べてはならない善悪を知る木の実を食べて
しまいました。その事により、人は知識を得て、自分の考えで判断し、自立するようになったのです。
その結果、たとえ全能主が言われた事に対しても、自分の判断で逆らうようになり、結果的に全能主に
反抗する霊を現すようになったのです。しかしながら、全能主は、人間に知識を与えれば、そのような
方向に行く事を予め知った上で、あえて狡猾な蛇(サタン)が、人間を唆す事を許したのです。
それは、全能主の子であるルシファーでさえ、「いと高き方のようになろう」(イザヤ14:14)と
高慢になって、全能主に逆らって地に落とされたからです。ですから、予め人間を罪の中に落とし、
全能主に逆らって行く可能性を十分秘めた者として、人間は生かされるようになったのです。それは何の
ためかと言いますと、「人は、全能主に逆らう罪人である」という事を分からせた上で、「自分は罪深い、
怒りの器です」ということを承服させ、心から悔い改めて、へりくだって来る者たちを、イエス
・キリストのアオリストの贖いによって、救いを与えようと計画を立てられたからです。即ち、「私達の
罪の大元である反抗の霊を出せば、全能主の御国を破壊させてしまうので、予めへりくだりを学ばせて
から、全能主に逆らう芽を摘んで、御国を完成させようとされたのです。」このように、全能主は
人の中にある反抗の霊が、如何に呪いに繋がるかを認めさせ、「それを砕いた者たちを集めて、全能主の
許に来させよう」とされたのです。ですから、御国に集められる者は、全ての者がこの反抗の霊を砕いた
かどうかに掛かっています。たとえイエス・キリストの贖いを信じたからと言っても、反抗の霊を砕いて
いない者は、いずれ指摘されたり、怒鳴られたりすると、必ずその反抗の霊を表に出して来ます。
ですから、全能主は反抗してくる者を見て、天の御国に入れる事を拒否されるのです。逆に、たとえ、
キリストの救いを知らずに命を閉じたとしても、自分の反抗の霊を砕いた者に対しては、全能主の憐みが
あります。例えば、イエス様と一緒に十字架につけられた強盗の一人は、イエス様を贖い主として信じて
いた訳ではありません。ただ、あの十字架上で「俺達は、自分が犯した罪のために裁かれるのだから
当然だ」と言って、「自分は反抗してきた罪人であり、それが間違っていた」と認めて、反抗の霊を
砕きました。そこで、イエス様は、砕かれた強盗の心を見て「あなたは今日、私と共にパラダイスに
います」と言われたのです。その時点では、まだイエス様は復活していませんので、救いの根拠はありま
せん。しかし、それでも、彼が反抗の霊を砕いた為に、イエス様は彼を「パラダイスにいます」と言われ
たのです。ところが、もう一人の強盗は、反抗の霊を丸出しにしました。これは、実に大きな差です。
ということは、信じた私達も「反抗の霊」を砕かず、そのままにしていたら、どんなに恐ろしい結果を
生むかを悟るべきです。聖書のヨハネ福音書には、たとえ信じると言った者たちさえ、心を砕いていない
者たちはイエス様の言葉に反発し、多くの弟子たちが「これは、ひどい言葉だ、聞いておられようか」と
言って、「去って行った」(ヨハネ6:60、66)とあります。ですから、私達は全能主に反発する
霊は砕き、何が何でもイエス様は正しいと信じるべきです。「聖書は正しい。全能主は正しい。イエス様は
正しい。」これが私達の「信仰告白です。」人は、サタンに騙されて知識を持ち、自分の勝手な考えを
持つようになりました。そして、イエス様さえ否定して、簡単に反抗の霊を出してしまうのです。これは、
早い内に砕いておかなければなりません。それが信じる者の最低条件です。即ち、「反抗の霊を砕きます」
という者を、全能主は、キリストの贖いによって救い、これを天の御国に迎えようとされているからです。
ですから、イエス様は、「①悔い改めて②福音を信ぜよ、③天の御国は近づいた」と言われたのです。
この「砕かれた悔いし心」と「イエス・キリストの贖い」の両方があってこそ、本物の信仰です。
(結)このことから、私達がまず、すべき事は自分の反抗の霊を砕く事です。それが砕かれて
いないと、せっかく御霊に預かる者となっても、反抗の霊が出て、全能主の御子を再び十字架に
付けることになってしまうからです。(ヘブル6:4~8)。ですから、反抗の霊こそ「自分の罪の
本質です」と悟って砕きましょう。すると、「イエス・キリストのアオリストの救いが、どんなに
凄い救いかが分かってきます。」そして、御霊の作り出して下さる「新しい身体」をもって、天の
御国で永遠に住まわせて頂けるのです。何という感謝な救いを用意して下さったことでしょう。
私達は、初めから罪人として造られた者ですから、私達が罪を犯さない人間になるなんて事は絶対に
あり得ません。また、「罪がない」とは言えません。ですから、全能主も私たちに、人間的な能力は
全く期待していません。ただ、全能主が見られるのは、砕かれた悔いし心だけです。どうか、
生まれながらに持っている反抗の霊を砕いた上で、キリストの贖いを受け入れ、本物の救いを
味わって行きましょう。
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