2024年7月28日
『反抗の霊を砕き、どこまでも全能主のお考えを
受け入れて、信じ通していく信仰』
民数記 16:1~35
|
(起) 民数記16章のコラの裁きの記事から、「反抗の霊を砕き、どこまでも全能主のお考えを受け
入れて、信じ通して行く信仰」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、民数記16章は、モーセの従兄弟であるコラが口火を切ってモーセに反抗し、それに
同意した250人の者達が一斉にヤハウェに裁かれて、焼き尽くされてしまった記録です。本来ならば、
コラはモーセの親類ですから、モーセを助けなければならない立場でした。しかも、レビ族は他の11部族
のように戦いの職務には就かず、大切な幕屋の仕事を任せられていた特別な部族です。にもかかわらず、
彼らはモーセとアロンに逆らい、「あなた方は分を超えている」(16:3)と言って反抗したのです。
そして、モーセがコラを呼び寄せようとすると、「あなたは乳と蜜の流れる地に私達を連れても行かず、
畑とぶどう畑を受け継ぐべき財産として私たちに与えてもいない。私たちはあなたの所へ行かない」
(16:14)と言って、なお反抗したのです。そもそも、彼らが乳と蜜の流れる地に入れなかった
原因は、彼らの不信仰であったにも関わらず、彼らはカナンに入れないその不満をモーセに
ぶつけたのです。それで、モーセは激しく怒り、「この件については、ヤハウェに裁いてもらう」と言い、
コラ、ダタン、アビラム、オンの4人と、それに同意した250人の者達に火皿に、香を盛って来る
ように命じました。すると、その250人は、自分達が持って来た火皿によってヤハウェに焼き尽くされ、
コラたちは、家族共々地割れの中に落ち、生きながらにして黄泉に下り、地は彼らを完全に飲み込んで
しまったのです。これは実にむごい裁きです。
(転)では、全能主は何故ここまでむごい事をなさったのでしょうか。全能主が人間を造られた本来の
目的は、人間を裁くためではなく、御自分の御国へ導くためです。ところが、全能主はあえて人間を
罪の中に閉じ込めてしまわれました。それは何故かと言うと、人間の心の中には、「自分の思うように
したい」という反抗の霊があり、全能主に逆らう心を簡単に出してしまうからです。例えば「最初の人間
アダムとエバが全く唆されなかった」としたら、「彼らは最後の最後まで全能主に逆らわずに生きて
行くか」というと、そうとは限りません。なぜなら、エゼキエル書28章12節を見ますと、「あなたは
全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。あなたは全能主の園、エデンにいて、あらゆる
宝石があなたをおおっていた」という、全能主の子ルシファーでさえ、全能主に逆らって地に落とされて
しまったからです(エゼ28:17)。本来、全能主の子ならば、罪はない筈ですから、全能主に
逆らうことなどないと考えておりました。しかし、17節では、全能主の子として生まれた者でも、この
ように逆らう気持ちを持っており、たとえ罪の中にいなくとも、悪魔大王(赤い巨大な竜、黙示録12:3)
によって唆され、全能主に逆らってしまったのです。ですから、全能主は人間を創造した時には、
あえて蛇によって人間を唆し、人間を罪の中に閉じ込めてしまわれたのです。(ガラテヤ3:22)。
そして、その上で人間が「生まれながらに罪人である」という事実を認めさせ、全能主に対してへりく
だって来る者を、救おうと計画されたのです。つまり、アダムとエバに「罪を犯さないようになれ」と
求められたのではなく、敢えて罪人として存在させ、その子孫である人間を完全に罪の中に閉じ込めて
しまわれたのです。そして、「罪のない御自身の御子を身代わりに立てて、人間の罪の償いをさせ」、
罪人の人間には「悔いし、砕かれた心を持ってへりくだって来る者には、キリストの贖いの故に、罪の
債務証書を無効にし、十字架に釘付けにして破棄する」と、定められたのです。こうして人間は、生まれ
ながらに罪人として生まれて来た者ですが、「キリストの救いの道があるならば、よろしくお願い
します」と、へりくだって救いを求めた者には、憐れみの器として、御国に入れてくださる」と、
保証して下さったのです。なぜなら、全能主は「このように心の底から罪を認めて、二度と逆らうような
事をしないと定めた人間達」と、天の御国を築こうと考えられたからです。そして、私達を御国に入れる
際には、罪の肉体を脱ぎ捨て(コロサイ2:11)、御霊が創り出す新しい身体を与えて、イエス様と
同じ姿(ピリピ3:21)にして、天の御国に迎え入れようと計画されたのです(第Ⅰコリント15:44)。
まさにその時、「朽ちる者が朽ちないものを着、死ぬべき者が不死を着る時、死は勝利に飲み込まれた」
(第Ⅰコリント15:54)という御言葉が成就するのです。そうであれば、私達は、もう地割れの中に
飲み込まれて潰されて行くようなことはせず、むしろ、「死は完全に勝利に飲まれた」とあるように、
御霊の体を頂いた者として、へりくだって全能主に対して生きて行くのです。
(結)ここまでの事が分かったら、あと何が必要ですか。コラ達のように文句を言い、反抗の霊を現す
ことは、全くあってはならないことです。私達は罪人として生まれた者ですが、御国に入れられる道を
備えられた者です。ですから、自分の義を立てるのではなく、反抗の霊を完全に退けて行けばいいのです。
むしろ、私達はキリストにあって生き、全能主を信頼し、全能主に懸けて行くのです。正に、それを望んで
全能主は永遠の計画を立てられたからです。ですから、信じた者が「信じれない」とか、「駄目だ、できない」
という事を絶対に受け入れてはいけません。全能主に対する反逆など、絶対にあってはならないことです。
私達は、「駄目であろうが、できなかろうが」、最後の最後まで信じ通して行くのです。それが信じた者の
本来の生き方です。「ですから、愛する兄弟達よ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに
励みなさい。あなた方は、あなた方の労苦が主にあって無駄にならないことを知っているのですから
(第Ⅰコリント15:58)。」どうか、「反抗の霊を砕き、どこまでも全能主のお考えを受け入れて、
最後まで信じ通して行く純な信仰」を全うしようではありませんか。
|
|