2024年7月21日
『信じたのなら、トコトン信仰を追求して、
全能主に信頼して懸けて行く事』
民数記 12:1~16
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(起) 民数記12章の記事から、「信じたのなら、トコトン信仰を追求して、全能主に信頼して
懸けて行く事」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、ここでは、モーセがクシュ人の女を娶っていたことが書いてあります。モーセが
最初に娶ったのは、ミデヤン人のチッポラですが、彼女は途中で実家に帰ってしまった為、その後
しばらくして、モーセはクシュ人の女を娶る事にしました。しかし、本来、妻として一番
ふさわしいのは、同じ民族の女性です。なぜかと言うと、当時、全能主は全ての人間の中から
イスラエル民族を選び、その民族を通して、御自身の存在を全世界に知らせようと考えておられた
からです。ですから、イスラエル民族は他国人と区別され、純潔が求められていたのです。ですから、
モーセがクシュ人の女を娶ったという事で、ミリヤムとアロンは彼を非難しました。ところが、全能主は
この件について、モーセには、何も責めてはおられません。もし、モーセがクシュ人の女を娶る事が
全能主の怒りに触れる事であるならば、モーセはとっくに退けられていたでしょう。しかし、
全能主はモーセに対して腹を立てる事もなく、そのまま容認されたのです。それだけ全能主は
モーセを信用していたという事です。それは、3節を見ますと、「モーセという人は、地上の誰にも
まさって非常に謙遜であった」とあり、「わたしは口と口とでモーセに語り、明らかに語って、
謎で話すことはしない。彼はまた、ヤハウェの姿を仰ぎ見ている。なのに何故、あなたがたは、
わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか(8節)」と言われ、却って、ヤハウェの怒りは
アロンとミリヤムに向かって燃え上がり、ミリヤムは、らい病に冒されて、一人だけ宿営の外に出され、
全能主に逆らった女として見せしめにされたのです。
(転)では、この記事から、私達が学ぶべき事は何でしょうか。それは、「どこまでも全能主を信頼して
従って行く心が一番大切である」という事です。それは、上辺で従って行くことではなく、全能主を
本気で信頼する信仰です。何故なら、クリスチャンは「律法から解放された」ため、「モーセの
律法では義とされることの出来なかった全ての事について、信じる者は誰でもこのイエスによって
義とされる(使徒13:39)」という救いがあるからです。全能主にとって一番喜ばしい者は、
全能主を完全に信じて、信頼して従って行く者です。という事は、「私達が律法を完全に守る事より、
全能主を心から信頼していく心」を大事にされるのです。なぜなら、それが人間に律法を与えた目的で
あったからです。人間は、元々アダムから今日の私達に至るまで、全能主に逆らい続けて来た者で、
律法を守って来た者ではありません。ですから、罪人の人間が救われたからといって、完全に
贖われ、キリストと全く同じ性質にされるのは、キリストの再臨の時まで待たなければなりません。
それまでは、みんな罪人のままです。それは、被造物が虚無に服したのは、自分の意志に依るのでは
なく、服従させた方に依るからです。その為私達は、今滅びの束縛から解放されるのを待ち、心の内で
うめきつつ、体の贖われるのを待ち望んでいるのです。(ロマ8:18~23)という状態に置かれて
いるからです。ですから、救われた者が、なお肉の束縛の中にあるのは、私達が「砕かれた悔いた心」を
持つためであり、全能主は「それを軽しめない」と言われるのです。ということは、「キリストの
贖いによって救われた」ことは、肉の正しい行いに掛かっているのではなく、罪人である事実を認め、
ただ全能主を信頼して、信じる心を持つか持たないかだけだったのです。だから、モーセのように
どこまでも信頼して従って行く心は、全能主が一番喜ばれるのです。ということは、私達もどこまでも
「全能主が全てを成し遂げて下さる」という信頼の心を持って従うことが、モーセと同様に、全能主と
繋がるたった一点なのです。まして、滅びの器であった私達が救われたからといって、自分の行いを
誇って認めて貰おうなどとは、以ての外です。私達が、モーセ以上に正しい行いをして
行くとか、正しい人間になって行くという所を、全能主が見られる筈がありません。モーセが
クシュ人の女を娶った事についても、その女性の心にあるものが、モーセと同じ全能主を信頼する
心があり、彼女がモーセに従い、協力する者であったので、律法とか、外側の善し悪しには関係なく、
全能主はその女を受け入れていたのです。同じように、全能主は私達に対しても、「罪人である
私たちが、どこまでも主を信頼して従って行くか、また、全能主の考えに同意して行くか」という
ところを、見ておられるのです。私達が全能主に繋がるのはその一点だけです。他の部分で全能主に
通用するところは一つもありません。どこまでも「全能主は絶対に正しい。だから、とことん
全能主に信頼し、信じて行きます」という心を貫く事が、私達の信仰です。
(結)私達は、自分を信頼する事はできません。しかし、イエス・キリストが命を懸けて私達の罪を
全部贖って下さった以上、「そこまでして下さったお方を、私は信じます。信頼します」と定めま
しょう。「私が今、肉体にあって生きているのは、・・・御子を信じる信仰によって生きているのです
(ガラ2:20)。」ですから、信じると言った以上、最後まで信じ切るのは当然です。逆に、
信じ切らないという事は、半分は自分を信じ、半分は全能主を信じるという事ですから、自分の
損得で全能主を利用する事になります。そんな者を全能主が受け入れられるはずがありません。
私達は、たとえ自分が損をする事があったとしても、全能主に信頼して懸けて行くのです。その純を
通したのがミュラーさんです。その証しがあるのですから、私達もその信仰を試して行きましょう。
即ち、「自分が一番困った時」、「どうにもならない時」、「逃げたくなった時」に、それでも主を
信じるという意識を持って試して行くのです。私達は、未だに閉塞状態の中にありますが、それでも
全能主に従います。自分の損得で背を向けることはしません。信じると決めたなら、とことん信じる
という純を通すのです。どうか、全能主を信じた者なら、どこまでも信仰を追求して行きましょう。
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