2024年7月14日
『罪人の自分だからこそ、
どこまでも信じ続けて行く信仰を、確信を持って貫いて行く』
第Ⅰヨハネの手紙 1:8
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(起) 第Ⅰヨハネ1章8節の御言葉から、全能主の前に自分の罪を認め、「自分は罪人だから、どこまでも
信じ続けて行く」という信仰を「確信を持って貫いて行く事」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、クリスチャンがキリストを信じる時の動機は、人それぞれの違いがありますが、よくあるのは、
ヨハネ福音書3章16節の「全能主は、ご自分のひとり子を与えられたほどに、この世を愛された。
それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を持つためです」という御言葉から、「キリ
ストを信じる者は誰でも救われる」と聞いて「信じた」というケースです。確かに、「キリストを信じる
者は誰でも救われる」という事は、聖書の重要な真理の一つです。しかし、「私達は全能主の前に完全に
罪人である」というポイントをしっかり押さえた上で、この福音を受け止めないと、単なる御利益信仰に
なってしまいます。それは、自分は罪人だという事をあまり意識せずに、主の愛と恵みで救われると
聞いて、「自分は地獄に行きたくないから信じます」という軽率な動機で信じる事になってしまうから
です。それは、はっきり言って御利益宗教です。まず、キリストを信じる前に、自分の罪がどんなに
根深いものかを悟らずに、自分の取るべき罪の責任に目を向けずに棚上げし、「ただ救われたい」という
自分勝手な願望だけに目を留めて信じると、その後も、キリストの愛と恵みだけに心を向け、「罪の責任を
取る」という大切な面が棚上げされてしまうからです。なぜなら、御利益から入った信仰は、最後まで
御利益を追い求めてしまうのです。即ち、「自分は本当に救いが必要な罪深い人間だ」と示されずに
信仰の世界に入ると、信じた後もずっと自分の罪を自覚しようとしません。自分の罪を直視してその罪を
砕くという事をせず、「イエス・キリストの恵みで救われるのだから」と言って、罪に対する責任から
逃げて自分を守って行くのです。これでは、キリストと共に死に、キリストに在って生きて行く新しい
歩みをして行く事が出来ません。それは、ただ生まれながらの肉の考えの上に、キリストの考えを
上積みして、霊と肉をごちゃ混ぜにして、肉の考えをリセットせずに温存したままキリストの
教える新しい考え方、新しい生き方に変えて行こうとしない生き方になります。即ち、罪人の考えが
否定されず、昔と変わらない自分の都合を第一にし、自分自身の願望を第一に求めて行く、御利益宗教に
なります。ですから、自分は罪人だという事を認めていない者は、本当の意味で信仰のスタートを切って
いない事になります。
(転)では、どうしたら本当の信仰のあり方をスタートする事ができるのでしょうか。それは、先程から
お話ししているように、私達は、罪を犯したアダムの子孫ですから、生まれた時から「自分は完全な
罪人だ」という事実を心の底から本気で認め切り、自分を否定する「砕かれた悔いし心」を持つ事です。
今日お読みした第Ⅰコリント9章24節を見ますと、「競技場で走る者は、皆走りますが、賞を受け
られるのは、ただ一人だけです。あなた方も、賞を獲得できるように走りなさい」とあります。即ち、
「私達が本気で聖書と向き合い、本気で自分の罪に向き合わないと、救いを得る事はできない」という
事です。自分の罪を温存し、曖昧にしておきながら、キリストの救いを手にしようとしても、それは
通用しません。それは、単にキリストの救いを利用することになります。第Ⅰヨハネ1章8節に書いて
ある通り、私たちの罪は「聖書に向き合って初めて『全面的に罪人』ですと、認めることが出来ます。
賞を得たいと思うなら、生まれながらの自分の罪を認め切ることが大事な信仰の原点なのです。即ち、
本気で「聖書に向き合わないと、全能主の前にある罪が分からない」という事です。ですから、「自分には
罪が分からない」とか、「何とか心の底から罪人ですと認められるように、全能主に祈って行きます」
とかいう甘い考えは通用しません。「自分がどうにもならない罪人だ」という事実は動かすことの出来ない
事実で、自分が一番よく知っている筈です。ならば、その罪を認めて砕くのは当然のことです。
全能主に砕いてもらうのではありません。自分で「自分は罪人ですと、悟って認めること」です。私たちの
罪は、いつも自分の目の前にあるからです。そこを、認めたところから、私達の本当の信仰は始まります。
そして、自分の罪を認めたなら、その事実から飛び出してはいけません。信仰の勝利の秘訣は、最後まで
確信を持って信じ続けて行く所にあります。その確信はどこから来るのかと言うと、「否定できない自分の
罪を認める事」と、「その罪の赦しはキリストのアオリストの救いだ」と言うことを知るところから
来るのです。どういう事かと申しますと、残念ながら私達の罪の性質は死ぬまで取り去られる事はなく、
キリストを信じても尚、罪を犯してしまう者です。ですから、ふと「自分は救われていないのかな」と
思ってしまう事もあるかも知れません。しかし、アオリストという事は、現在の状況如何にかかわらず、
私達の罪の償いは過去に全部終わっているのです。これこそが、私達の救いの確信です。それが
分かったら、たとえ罪を犯して落ち込む事があったとしても、直ぐに悔い改めて信じる事は止めません。
むしろ、罪深い自分自身を認め、下手に出て信じ続けるという信仰を最後まで通して行く筈です。
(結)私達の罪は、命閉じる時まで「いつも自分の目の前」にあります。その罪が自分自身の
すべてであって、一つも言い逃れはできないし、言い訳もできません。また、罪深い自分を「変えて
行ける」という可能性も、自分には一切ありません。だから、私達はイエス・キリストのアオリスト
の救いを頂くしかないのです。これが分かったなら、私達はどこまでもキリストに懸けて行けます。
これ以外に救いはなく、心を寄せるところはないからです。どうか、全能主の前に自分の罪を完全に
認め、「自分は罪人だから、どこまでも信じ続けて行く」という信仰を、確信を持って貫いて
行こうではありませんか。
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