2024年6月23日
『主の再臨の時に、旧約新約の聖徒たちと共に
天に上げられる望み』
ヘブル人への手紙 11:32~12:2
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(起) ヘブル書11章40節と12章1~2節の御言葉から、私達が目指すところは主の再臨の時に、
旧約の聖徒たちと、新約の私たちが一つとなって、天に上げられる事であり、それを目指して信仰の生涯を
走り抜いて行く事を、学んで行きたいと思います。
(承)さて、ヘブル書11章には、「主を信じる心によって歩んだ人達の事」について、アベルから順に
記されています。そして、33節からは「彼らは主を信じる心によって、国々を征服し、義を行い、
約束のものを受け、ライオンの口を塞ぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱い者は強くされ、戦いに
よって勇者となり、他国の軍を退かせました」とあります。例えば、ダニエルは、信仰の故にライオンの
穴に投げ込まれましたが、主がライオンの口を塞がれたので、ダニエルはライオンに襲われる事はありま
せんでした。また、シャデラク、メシャク、アベデネゴは、信仰の故に火の燃える炉の中に投げ込まれ
ましたが、主が三人を守られたので、彼らは少しの害も受けませんでした。このように、主を信じる心に
よって、勝利を味わって行った人達がたくさんいます。また、35節以降にあるように、主を信じる心に
よって、迫害され、拷問の苦しみを甘んじ、釈放されることを願わずに、死んで行った人達もいます。
しかしながら、彼らはまだ天に挙げられてはいません。40節を見ますと、「彼らが私たちと別に、
完全な者にされることはなかった」とあります。即ち、彼らが天に上げられるのは、私達と同じ日で
あって、別々に挙げられるのではないのです。つまり、「世の終わりにイエス様がおいでになった時に、
旧約の信仰者達と新約の信仰者達は、皆一つとなって天に上げられるのです。」ですから、今、旧約の
信仰者達は、雲のように私達を取り囲んで、私達と共に天に上げられるのをじっと待っています。そして、
いよいよその時は刻々と近づいています。今、全能主は最後の集大成を始めておられ「終わりの患難時代」
に備えて、本気で信じる者達を明らかにし、新約の信仰者達と、旧約の信仰者達を共に天に挙げようとして
おられるのです。
(転)では、この恵みに預かっている私達は、残りの生涯をどのように歩んで行けば良いのでしょうか。
それは、自分が、イエス様のアオリストの贖いによって救われた者」であることを感謝し、「一切の重荷と、
すぐに絡み付いてくる罪とを振り捨て、信仰の創始者であり、完成者であるイエス様を仰ぎ見つつ」、
残りの生涯を全うして行くことです(ヘブル12:1~2)。私達にとって、旧約の人達と一緒に天に
入れて頂く事が最高の望みであるなら、地上の事について、いちいち心を留める必要はありません。
信仰の生涯を送った旧約の信仰者達はみな、天の故郷を目指し、地上では旅人であり、また寄留者である
ことを言い表していました。ならば今、私達も同じです。もう地上の事に縛られ、自分の肉の願望を
追い求める必要はありません。すべて霊的な望みに焦点を合わせ、天を目指して行けばいいのです。
たとえ地上で怒られても、そこで言い訳をする必要はありません。また、弁解をする必要もありません。
もし、人前で言い訳や弁解を口に出してしまうなら、その言い訳が心に残って消えなくなり、相手の
言わんとする事をそのまま聞く事ができなくなります。そして、ただ自分を守ろうとする思いに捕らわ
れて、益々地上の思いに縛られてしまうのです。そして、天に対する心がどこかに飛んで行って
しまい、いくら聖書から教えられたとしても、御言葉が素直に入って来なくなります。ですから、たとえ
自分自身の心の中に弁解が浮かんだとしても、口に出してはいけません。それは、患難時代でも同じです。
患難時代に入り、人前で「嫌だ、辛い、できない」と口に出してしまうと、その言葉に捕らわれ、悪魔に
「本当は助かりたいのだろー」と脅かされ、ついには逃げ出して、サタンの側につく者となってしまい
ます。ですから、もし心の中でそのような気持ちが出て来たら、それは全能主に言いましょう。私達は
肉を抱えていますので、辛い気持ちが出てくるのは当然です。その辛い気持ちを、祈りを通して全能主に
ぶつける事は構いません。その言葉は全能主が聞いて下さいます。またイエス様も、十字架にかかられる
時、「この杯を取り除けて下さい」という気持ちを父に発露されました。しかし、それを人前で口に
出す事はされませんでした。ですから、最後には自分の肉の思いを横に置き、「あなたの御心のままに」
と言えたのです。私達の地上での歩みも、そのようにして行くのです。
(結)どうか、この真理をしっかりと心に留めて下さい。私達が目指すところは、イエス様の
再臨の時に、旧約の信仰者と一つにされて、天に上げられる事です。その望みを抱いて、一切の
重荷とすぐに絡み付いてくる罪とを振り捨てて、信仰の創始者であり、完成者であるイエス様を
仰ぎ見つつ、信仰の生涯を走り抜いて行こうではありませんか。
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