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2024年6月16日

自分の感情を横に置き、言われた通り聞いて、
相手の言わんとする真意を受け止め、従って行く
事』

へブル人への手紙 3:7~15


(起) ヘブル3章7~15節の御言葉から、「自分の気持ち、自分の思い、自分の感情を横に置き、

いつも、言われた通りそのまま聞いて、相手の言わんとする真意を受け止め、従って行く事」を学んで

行きたいと思います。


(承)さて、まずはヘブル9章15節を見ますと、「キリストは新しい契約の仲介者となられたのです。

それは、キリストが、
初めの契約のもとで犯した違反を贖うために死なれた結果、召された者たちが、

約束された永遠の御国を受け継ぐために他なりません」
とあります。「初めの契約」とは、人間の思い

上がりから出た全能主との契約です。しかし、イスラエル人にとって全能主の律法は重く、全ての人が

罪の惑わしに陥って、契約の違反者となってしまいました。このことは、異邦人である私達も陥る罠です。

それは、律法的な正しい生き方を求めて認められようとする思いが、私達の心にもあるからです。例えば

「あらゆる煩悩(ぼんのう)(欲望)から離れて、物事への執着を捨て、悪から離れた生き方」をして行けば

救われるという、思い上がりの罠に陥るのです。しかし、そこには落とし穴があり、一つ出来ても、

また他の欲望が出て来て、煩悩は死ぬまでなくなりません。何故なら、人間の心には生まれた時から魔物が

潜んでいるからです。
ですから、人間は律法を完全に守り、苦悩から解決されることは出来ないのです。

ならば、自分の犯した違反をどのように償って行けば、救われるのでしょうか。もうお手上げです。ただ

悪には悪に対する報いがあるだけです。しかしながら、私達には救いがあります。それは、私達が犯した

違反を償うために、「人間が受けるべき裁きを、キリストが身代わりに受けて下さった」からです。
この

救いがなければ、私達にとって永遠に救いはなく、ただ裁かれて苦しみの中に放り込まれるだけです。

しかし、私達はこの救いの真理を知らされ、信じる事ができました。それなら、いつもその霊的な幸いの

中で喜び、日々霊的に成長して行く筈です。ところが、現実は、霊的な幸いの中に身を置いているのは、

礼拝のメッセージを聞いている間だけで、
メッセージが終わると、肉の世界に戻ってしまうのです。

それでは、キリストの贖いが無駄になり、私達の信仰は成長して行きません。それが、私達の信仰生活の

現実の姿ではないでしょうか。


(転)では、その原因はどこにあるのでしょうか。それは、感情中心な思いに捕らわれている罪が、

その原因なのです。私達は、いつも自分の気持ち自分の思い自分の感情を心の中心に置き、いつも

その声に従って生きています。その結果、自分が認められないと反抗心が出てきて、全能主に背を向ける

ようになるのです。ヘブル3章12節に「兄弟たちよ。気をつけなさい。あなた方の中で、不信仰な悪い

心を抱いて、生ける全能主から離れ去る者が起こらないようにしなさい」
とは、その事を言っています。

即ち、私達は生まれながらの肉の感情で、自分の心を満たしているからです。本来なら、キリストの贖いを

信じた者は、肉の感情(魔物の声)を横に置き、素直に聖書の言葉を受け入れて、主にあって生きて行くはず

です。
しかしながら、信じていると言っても、私達の日常生活の中では、当たり前のように肉の思いを

出して生きています。
具体的に言うならば、「自分を叱ってくれる人の言葉をそのまま聞く」という事を

していないのです。人が、叱られるという事は、その人の内に間違いがあるからです。しかし、自分が

責められると、必ず、心の中から弁解する言葉が出てくるのです。そして、素直に聞こうとしないのです。

それでは、自分のどこが間違っているのかが分かりません。ところが、自分の弁解を横に置き、叱って

くれる相手の言わんとする事をそのまま聞こうとした時に
、「そうか、そこが自分のいかん所か」と分かって

来るのです。それが分かれば、素直に「自分が間違っていました」と言う事が出来て、心を変える事ができ

ます。即ち、「砕く事ができるのです。」これが出来ない為に、私達の信仰の成長が妨げられているのです。

私達が御霊の声を聞く時、「そのまま聞きますので、お語り下さい」と祈ってから聞きます。
それは、

自分の肉の思いを挟まず、横に置いて聞くとき、スムーズに御霊様の声を書き留めていくことが出来るから

です。同じように、人に対しても、お叱りを受けた時には「そのまま聞きます」と心の中で、自分の考えを

横に置くなら、相手の言わんとすることがよく見えてきて、叱られている意味がよく分かってきます。

ですから、指摘されたことが「自分の為になり、ありがたい」と思えて、人間的にも成長して行きます。

私達の信仰もそのように素直な心で受け止めていくなら、信仰が成長して行くのです。ですから、イエス様が

送って下さった御霊様に聞き、また、聖書に聞いて、素直に従うのです。
このルールから離れたら、私達の

信仰の成長は一切ありません。また、救いの保証もないと思って下さい。何故なら、我を通して行くことは、

全能主に逆らうことになるからです。

(結)この故に、もう自分の我に立つ事を止めましょう。基本的に、自分自身の考えは横に置くべきです。

そして御霊の声、また人の声に素直に聞いて行くことが、信じた者の幸いな道になるのです。そうすれば、

私達は主の前に信仰が増し、高められて成長して行くでしょう。また、救われた者の幸いを味わうでしょう。

逆に、それをしなければ、私達はどんどん肉的になって、全能主から離れ、救われた者の幸いを失って行き

ます。それが、ヘブル書のメッセージです。もし、本気で信じる心を通して行こうと思うなら、心を頑なに

せず、「今日、もしあなた方が全能主の御声を聞いたなら、・・・あなた方の心を、頑なにしてはいけない」

(ヘブル3:7~8)
と言われている言葉を受け止めましょう。そして、自分の気持ち、自分の思い、

自分の感情を横に置き、いつも、言われた通りそのまま聞いて、相手の言わんとする真意を受け止めて行く

習慣を身につけ、
「いつも御霊様に聞き、聖書に聞いて従って行く」という、信仰の道を実践して行こう

ではありませんか。


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