2024年5月12日
『信仰の戦いを勇敢に戦い抜き、走るべき行程を走り終え、
主を信じ煽ぐ心を守り通す』
第Ⅱテモテへの手紙 4:6~8 |
(起) 第Ⅱテモテ4章7節の御言葉から、世的な考え方ではなく、聖書の考え方にはっきりと立ち、
「信仰の戦いを勇敢に戦い抜き、走るべき行程を走り終え、主を信じ仰ぐ心を守り通す」という事を
学んで行きたいと思います。
(承)さて、パウロは、自分自身が世を去るべき時が間近に迫ってきたと感じた時、「私は戦いを勇敢に
戦い抜き、走るべき行程を走り終え、主を信じ仰ぐ心を守り通しました」と言って、自分の信仰の姿勢を
明らかにしました。私達も、「世を去るべき時が間近に迫った」と言う時が、必ずやって来ると思います。
その時には、この言葉を言えるように、このメッセージを残したいと思います。そのために必要な事は、
まず私達の魂に影響を与えてくる悪魔を退けて行くことです。先週も学んだように、私達の心の中には、
生まれた時からサタンの心、いわゆる魔物の心が入り込んでいます。魔物は、私達に世的な物の考え方を
させて、聖書という土台から離れさせようとします。しかし、その魔物の存在を許されたのは全能主です。
それはなぜかと言うと、「魔物の声が聞こえる中にあって、人間が自分の心(魂)をどのように働かせて、
全能主を信頼する方向に心を向けて生きようとするのか」という事を、「全能主は見たいと思われた」
からです。ですから、私達は、自分の魂(人格)を悪魔に明け渡さず、しっかり持っていなければなりま
せん。そして、聖書の理屈に基づいて物事を考え、判断して行くのです。それは、第Ⅱコリント6章
7~8節にある通り、「真理の言葉と全能主の力とにより、また私達が左右に持っている義の武器に
よって悪魔を退け、誉められても、誹られても、悪評を受けても、好評を博しても、信仰の
戦いを戦い抜く」という事です。即ち、この世に囚われず、どこまでも聖書の土台に立って、悪魔を退け、
信仰の戦いをして行くという事です。私達は今、その戦いの真っ只中に置かれているのです。
(転)では、この後、私達が世の終わりの患難時代に入った時には、具体的にどういう戦いをして行けば
いいのでしょうか。それは、使徒行伝20章19節以降に記されている通りです。19節に「ユダヤ人の
陰謀によって私に降りかかった数々の試練の中にあって、主に仕えてきました」とありますが、いつの
時代も、ユダヤ人はクリスチャンを迫害しようと画策しています。このユダヤ人は、世界を統一して、
自分達のための地上の御国を作ろうと考えており、その親玉として出現するのが666です。しかし、
666が宮に座って「わたしを拝め」と言う時、クリスチャンは拝みません。ですから、ユダヤ人は
クリスチャンを敵に回して迫害するのです。そして、22~23節を見ますと、パウロは「どんな事が
私の身に降りかかって来るのか、私には分かりません。ただ、聖霊が私に繰り返し語られることは、
どの町々でも、鎖と患難が私を待ち受けているということです」と言っています。これが、患難時代に
起こる事です。しかし、私達は「全能主への悔いし砕かれた心と、私達の主イエス・キリストに対する
信仰」(21節)を持って、自分の走るべき行程を走り尽くさなければなりません。即ち、世的な考え方に
囚われ、「自分さえ良ければいい」という誘惑を砕き、聖書の考え方で生きて行くのです。そして、
ついに自分自身の命を差し出す時が来た時、「私は戦いを勇敢に戦い抜き、走るべき行程を走り終え、
主を信じ仰ぐ心を守り通しました」(第Ⅱテモテ4:7)という御言葉に至るのです。ここに至るために
必要な事は、聖書に基づいて物事を考えて「判断して行く」という、その土台に立って、今地上の現場で
その信じる信仰を通して行く事です。自分が強いとか弱いとか、そういう問題ではありません。私達は
何年も毎日聖書を読んできたのですから、その聖書に基づいて物事を考えて判断することが出来ます。
そこにしっかりと立っていれば、私達の信仰は自然に強くなります。いくら悪魔に唆されたり、
怯やかされたりしても、「私は、自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた全能主の
恵みの福音を証する任務を喜びを持って果たすことが出来るなら、この命は、少しも惜しいとは思いま
せん。」(使徒20:24)と、ハッキリ悪魔に言い切れるのです。
(結)こういうわけですから、私達は悪魔を恐れる必要はありません。しかも、悪魔が行く所は永遠の
裁きですが、私達が行く所は永遠のパラダイスです。悪魔が、この世界を牛耳る期間は、たったの三年半
です。そんな時代を前にして、全能主は、この世界ができる前から私達を選んで下さり、イエス・キリストの
アオリストの贖いによって、過去・現在・未来の私達の罪を赦し、「勝利を得る者」として召して下さったの
です。それが聖書のメッセージです。それならば、いつ世を去るべき時が来てもいいのではないでしょうか。
私達は、この世に何か残して行く必要はありません。ただ自分の信仰を全うできれば、それでいいのです。
どうか、世的な考え方ではなく、聖書の考え方にはっきりと立ち、戦いを勇敢に戦い抜き、走るべき行程を
走り終え、主を信じ仰ぐ心を守り通そうではありませんか。
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