2024年5月19日
『ロマ書の書かれた目的「信仰の従順」』
ローマ人への手紙 1:16~17
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(起) ロマ書1章17節「福音の中に、全能主の義が明らかにされている。その義は、主を仰ぐ心から
始まり、主を信じる心に至らせるのです」という御言葉から、ロマ書の書かれた目的である「信仰の従順」
について学んでいきたいと思います。
(承)さて、私達の信仰は「キリストが、私達の罪の贖いをして下さり、私たちの罪の債務証書を十字架
上に釘付けにして下さった」という福音を信じたところから始まりました。そして、その信仰は「主を
信じる信仰から始まり、信じる信仰が成長し、信仰の従順に至らせる」とあります。それは、福音を
信じた者の生き様が、この地上の現場で表わされ、本物の信仰が証されて行くものだからです。
しかし、信じたからといって、罪人の自分は依然として変わっていないのに、聖書は「罪に対して
死んだ者」であり、「罪から解放されている」と、記しています。しかし、実際には、信じても罪から
解放されていない自分が存在するのです。すると、「信じるとはどういうことなのか?」また「救われる
とはどういうことなのか?」と、悩み出し、信仰というものが分からなくなって、クルシミチャンになって
しまうのです。そこで今日、ここで聖書の示す真理を考察して行きたいと思います。まず、「アダム
の子孫として罪の中に生まれた者は、この体が贖われて御子の栄光の体と全く同じ姿に変えられるのは、
キリストの再臨の時である」と記されています(ピリピ3:21,第Ⅰヨハネ3:2)。その為、「罪から
解放された者」であっても、キリストの再臨までは、魔物を抱えた罪人であることは、死ぬまで変わり
ません。しかし私達は、聖書が語っている救いの教理を調べているうちに、「罪に対して解放されている」
という表現は、ギリシャ語の「アオリストという時制」を用いられている事を知らされました。この時制の
表現は独特で、「アオリスト形」とは過去形を表すものですが、日本語にはないギリシャ語特有の時制で
あり、「ある事柄を現在の状態に関係なく、過去に起こった事実として表す」という、ギリシャ語独特の
文法表現です。即ち、「二千年前にキリストが人間の罪の贖いをされた」という事実が、現在の自分の
状態に関係なく、既に過去に起こり、完成された事実であることを示すものです。ですから、「罪に対して
死んだ者」というのは、キリストの贖いが成されてしまっているので、全能主の宣言として、信じた
者には今現在の状態の如何によらず、「既に、罪に対して死んだ者である」と同時に、「キリストに
あって生きている者である」という言明なのです。ですから、聖書は「キリストに在って生きている
者であると、認め続けなさい」(ロマ6:11)と勧めているのです。ですから、この事をして下さった
キリストを信じた者であるならば、自分の現在の状態が如何なる状態であっても、信仰の歩みをするように
勧められているのです。それが信仰の従順に向かう道であり、今日のクリスチャンに求められていること
です。ですから、たとえ現在の自分に魔物が入り込んでいるという現実があったとしても、私達はキリスト
の贖いの故に、罪赦された者としての立場を頂いているのです。この恵みの故に、救いの根拠は「アオ
リストだ」と信じて、「なるほど」と受け止め、信じて行くのです。信じた初めの頃の信仰は、良く理解
していない部分もありました。しかし、信仰は成長していくと、その恵みがよく分かって来ます。そして、
信じ仰ぐ心から始まった信仰は、どこまでも信仰の生き方によって、真実な信仰に至らせるのです。
(転)しかし、ここで「なるほど」と思うだけではいけません。本来なら、全能主は人に救いを与えた
時点で「罪から解放し」、魔物を我々の中から取り去って聖なる者にして下さっても良かったはずです。
しかし、人は「口先では信じたと言っても、実際には信じた生き方をしていない」場合が多いのです。
それでは、その人は信じた者として認められません。私達は、真実な信仰に至って、初めて義とされるの
です。その為に、全能主は贖いを信じた者が、そのことを「本気で喜び、信仰に立って生きるかどうかを
見たい」と願って、人の中に魔物を入れたままにしておられるのです。実は、この点を理解させて信仰に
至らせる事が、パウロがロマ書を書いた目的なのです。ですから、全能主は、信じた者を直ぐに天国に
入れず、この地上で魔物を抱えながらも、信仰を通すかどうかを見ておられるのです。この聖書の理屈を
信じ受け止めたなら、本気で信じた生き方をして行く必要があります。それが、「主を信じる心に至ら
せる」全能主の御心なのです。即ち、信じたなら、信じた者の生き方を「実際にこの地上で証して行く
従順さが必要だ」という事です。その従順な生き方をしたのがジョージ・ミュラーさんでした。彼は、
孤児の養育をするようにと、全能主から志が与えられました。しかし、そのためにはお金が必要です。
ミュラーさんは、その問題をどうしたのかと言うと、「孤児の父は、全能主である」という聖書の御言葉を
信じ、「すべての必要は主が備えて下さる」と信じて、事を進めて行き、実際に主が成し遂げて下さった
事を味わって行きました。この生き方を私達もして行くのです。お金の問題だけでなく、あらゆる面に
おいて、主に信頼し、主の手の中でやらせて貰うという生き方をして行くのです。それが、信仰に至らせる
という事です。
(結)最後に、パウロがこの手紙を書いたもう一つの目的は、「御霊による霊の賜物を幾らかでも分け
与えて、力づけたい」(1:11)という事です。パウロは、7章から8章にかけて、御霊によって歩む
事の大切さを語っています。それは、命閉じるまで魔物を抱えているからです。その魔物を抱えた現実の
中で、私達は御霊による助けを頂かなければやって行けません。しかし、私達の教会では、内住の御霊の
声を、聞こうと思えばいつでも聞く事ができる事を知らされました。ですから、全能主は、私達がたとえ
丸腰であっても、「主に信頼せよ、主が成し遂げて下さる」という生き方を実践させて、その信仰を悪魔に
突きつけたいと思われています。ですから、皆さんも勇気を持って地上の現場で信仰を表し、「主に信頼
せよ、主が成し遂げて下さる」という事を味わって下さい。そして、どうか、信じたなら、信じた生き方を
この地上で実践し、信仰の従順さを持って、本物の信仰を証して行こうではありませんか。
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