2024年4月7日
『ダニエル書から紐解く黙示録』
ダニエル書 12:1~13
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(起) 世の終わりについて預言されているダニエル書から、黙示録の内容と比較して、終わりの時代に
何が起こるのかを解き明かし、「どこまでも主を信頼し、全てを主にお委ねする事」を学んで行きたいと
思います。
(承)さて、ダニエル書12:11に、「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる
時から1290日がある」とあります。この「荒らす忌むべきものが据えられる」とは、獣が神殿に立つ
という事です。現在、エルサレムの地には神殿がありませんが、この後、必ず神殿が再建され、獣が神の
座に居座り、自分を神だと宣言します。そして、「ひと時とふた時と半時の間、聖なる民の勢力を打ち
砕くことが終わるまで活動する」のです。しかし、ダニエル書には、「荒らす忌むべきものが据えられる
時から1290日がある」とありますので、ここを読んで疑問に思う事は、「1290日」と記されて
いる事です。私達の黙示録を通しての理解では、獣の活動は3年半(1260日)ですが、ここでは
30日多く記されているからです。また、12節を見ると、「幸いなことよ。忍んで待ち、1335日
に達する者は」と記されています。1335日と言うと、1260日から数えて75日先です。という
事は、患難時代の後半3年半の間に獣が「聖徒を打ち砕く活動」をした後に、更に30日の期間があり、
それから更に45日経つと、幸いが来るというのです。これはどう理解すれば良いのか、黙示録と照らし
合わせて見て行きましょう。まず、黙示録では、13章から獣が出現し、聖徒に打ち勝った後に、16章
19節で大バビロンが滅亡します。次の17章と18章は、大バビロン滅亡の詳しい内容です。ここで
獣と大バビロン(大淫婦)の奥義が示され、獣が大バビロンを滅ぼすという事が明らかにされています。
という事は、大バビロン滅亡の時までは、獣はまだ活動しているという事です。ですから、獣の3年半
(1260日)の活動の終わりは、大バビロンの詳しい内容の後の、18章の終わりまでです。そして、
次の19章に入ると、11節からハルマゲドンの戦いが始まります。そして、20節で獣が捕えられ、
火の池に投げ込まれて裁かれます。これが、獣の3年半の活動が終わった後に、30日間で起こる獣の
裁きの期間です。即ち、「荒らす忌むべきものが据えられる時から1290日がある」というダニエルの
預言は、「獣の消滅までの期間を全部合わせると1290日がある」ということです。そして、残りの
1335日までの45日間は、黙示録の20章1~6節までの期間です。獣がゲヘナに落とされてから、
黙20章1~3節までにサタンの捕縛があり、黙20章4節からは、聖徒が世を裁く期間が起こります。
「また見ていると、数多くの座があり、その上に人々が座っていた。そして、彼らには、裁きを行う
権威が与えられていた。」このことが、第Ⅰコリント6章2~3節に記されている通り「あなた方に
よって世が裁かれ、・・・私たちは御使いたちをも裁くようになる」と言われている出来事です。この
「御使いたちをも裁く」というのは、「サタンにつき従った御使いたちを裁く」という事です。それを
するのは誰かと言うと、既に天に上げられている「小羊の花嫁たち」です。黙示録20章の時には、もう
地上に聖徒は残っていないからです。そして、その後20章4節の後半では、「患難時代の殉教者たちが
復活する出来事が起こり、千年王国に入って、キリストと共に千年の間、王として支配する」時がき
ます。この千年王国に入る幸いな時までが残りの45日間です。即ち、「サタンの捕縛」、「聖徒たちに
よる世と悪霊たちの裁き」、「患難時代の殉教者たちの復活」が、千年王国に入るまでの45日間の
間に起こるということです。
(転)では、初めにお読みしたダニエル書12章12節の「幸いなことよ。忍んで待ち、1335日に
達する者は」とは、誰の事でしょうか。それは、これから患難時代に入って殉教し、その後復活して
千年王国に入って行く私たち自身の事なのです。この真理が分かったら、私達にとって死ぬという事、
殉教するという事は、決して悲しい事ではありません。なぜなら、「今から後、主にあって死ぬ者は
幸いである」(黙14:13)にあるように、私達が死ぬ事によって、「朽ちる者で蒔かれた者が、朽ちない
者に復活し、卑しい者で蒔かれた者が、栄光ある者に復活し、弱い者で蒔かれた者が、力ある者に復活
して、御霊の身体となる」という幸いに与るからです。ダニエル書12章11~12節には、
「聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わった時に、これら全てのことが成就する。また「幸いなことよ。
忍んで待ち、1335日に達する者は」とあります。私達が獣に打ち砕かれるという事は、最後まで
獣の印を打たず、「自分は死んでもいい」という気持ちで信仰を通して殉教する事です。それによって、
全能主は、「ここまでして、わたしを信じる者達がいるぞ」という事をサタンに突き付けるのです。
ですから、あえて聖なる民の勢力を打ち砕く事が全能主のお考えなのです。私達はその全能主のお考え
から逃げるような者であってはいけません。逃げるという事は、全能主のお考えよりも、自分の考え
通りに生きたいと言う事であり、全能主に逆らって行く事です。私達は、そんな生き方をするのでは
なく、「朽ちる身体を捨てて」最後まで主を信じ、「この命は主にお任せします」と言って、勝利を
得る者の生き方をして行くことです。
(結)ですから、「主にお任せし、主に成し遂げて貰う」という事が私達の信仰の全てです。主に
お任せするとは、主の御心を聞いて教えて頂き、その通りにして行く事です。その時に、自分にとって
「嫌だな」と思う事や、「自分には、とてもできないな」と思う事もあるかもしれません。しかし、
それを成し遂げるのは自分ではなく、全能主です。ですから、「出来る・出来ない、強い・弱い」は
関係ありません。ただ主に言われた事をやって行けばいいのです。それは患難時代でも同じです。
患難の中で、私達がどういう形で命を閉じる事になるのかは分かりませんが、この命を全能主にお任せ
して行くならば、全能主が私達を「勝利を得る者」にして下さいます。私達は自分で自分の命を絶つ
わけではありません。どこまでいっても、成し遂げて下さるのは全能主なのです。ですから、私達は
どこまでも主を信頼し、全てを主にお委ねする心を持って、信仰を全うしようではありませんか。
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