2024年3月31日
『小羊の花嫁として、聖なる都へ迎えられる者となる秘訣』
黙示録 19:6~8
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(起) 黙示録の小羊の花嫁についての解き明かしを通して、私達が「勝利を得る信仰者となって、
小羊の花嫁として聖なる都に迎えられる者となる秘訣」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、今日は、「小羊の花嫁は一体誰なのか」という事について、はっきりと分かりましたので、
それを皆さんにお話ししたいと思います。黙示録19章6~8節を見ると、「私はまた、大群衆の声、
多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った。…小羊の婚姻の時が来て、
小羊の花嫁は、その用意ができたのだから。また花嫁には、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを
許された」とありますが、ここに出てくる「花嫁」という言葉は全部「単数」で記されています。普通、
「小羊の花嫁」と言うと、たくさんの大群衆が花嫁として迎えられるというイメージがありますが、
何故か、ここでは「単数」で記されているのです。その理由は、21章2節を見ると分かります。
「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、全能主の御許を出て、
天から下って来るのを見た」とあるように、「花嫁」とは、「聖なる都、新しいエルサレム」そのもの
なのです。ですから19章の「花嫁」という言葉は「単数」なのです。つまり、聖なる都の中に迎え
られた人が、小羊の花嫁なのです。子羊の花嫁は、地上の世界で花嫁が花婿の家に迎えられるように、
全能主と子羊イエス様の住む家に迎えられるのです。即ち、21章3節に「見よ。全能主の幕屋が人と
共にあり、全能主が人と共に住み、人は全能主の民となり、全能主自ら人と共にいて、人の目から
涙を全く拭い取って下さる」とあるように、小羊の花嫁は、新居である全能主の幕屋の家に迎えられる
のです。そこでは、人の目から涙が完全に拭われ、喜びの家の中で父と子羊の交わりの中に入れられる
のです。これは、最高の慰めの場所です。それでは、具体的に聖なる都の中に迎えられる人とは、どう
いう人なのでしょうか。それは、14章2節を見ると、「また私は、大水のとどろきのような、激しい
雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた」とあり、更に読み進めて行くと、その声は「初穂」の人達の
声だと分かります(14:4)。ですから、「大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声」とは、
先程お読みした19章6節と同じですから、この「初穂」の人達が、小羊の花嫁だという事が分かり
ます。そして、この「初穂」の人達はどういう人達かというと、この聖徒達は、既に天にいる方々です
ので、患難時代の殉教者ではなく、患難時代以前に、命を惜しまずに信仰の証しを残し、「勝利を得る者」
としての生き方を全うして、天に上げられた人達の事です。そして、もう一か所、小羊の花嫁の事が
出てくる箇所があります。それは、5章9節です。「彼らは新しい歌を歌って言った」とあります。
この「新しい歌を歌った」という特徴は、先程お読みした14章の「初穂」の人達と同じです(14:3)。
という事は、5章から7章までは、8章からの患難時代全般のアウトラインですから、このアウトライン
の中にも5章9節で、新しい歌を歌った人たちが小羊の花嫁なのです。そして、先を読み進めて行くと、
5章9~10節「あなたはほふられ、あなたの血によって、全能主のために、あらゆる部族、諸国語、
民族、国民の中から私たちを買い取り、私たちの全能主のために、私たちを王とし、祭司とされました。
私たちは地上を王として治めるのです」とあります。更に20章4節を見ると、彼らは「イエスの証の
ために、全能主の言葉を伝えたために首を切られた人々の魂を見た。彼らは獣とその像を拝まず、その
刻印を額や手に受けることをしなかった人々である。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間、
王として支配した」人々であることが、はっきり分かります。即ち、これから患難時代に入って、命を
惜しまず殉教した聖徒達とは、私達のことを指し、そして、第一の復活に預かった後で千年王国に入って
「地上を王として治め」、その後、勝利を得た聖徒として、聖なる都の中に迎えられるのです。即ち、
聖なる都エルサレムに入る人々とは、「初穂」の人達だけでなく、患難時代の殉教者達も含まれるという
事です。つまり、この後に患難時代を通る私達は、そこに当てはまるのです。
(転)では、ここまでの事を解き明かされた私達は、これからどのように生きて行くべきでしょうか。
それは、「勝利を得る者」となり、「聖なる都エルサレムに迎えられるのだ」という意識を持って、
最後の最後まで全能主を信じて行く事です。即ち、これは、自分が成す事ではなく、全能主が成して
下さる事ですから、全能主を信頼して、全能主が成し遂げて下さる事を信じて、ただ全能主が言われた
事を信じて全うすることです。それは、患難時代の真っ只中にあっても同じです。自分が獣と戦って、
自分が勝利を得るのではありません。患難の中に入ったら、「主よ、どうしたらいいですか。どのように
対応したらいいですか」と聞いて行くのです。すると、全能主は「私たちに志を与え、事を行わせて
下さる」のです。私達は、患難時代に入ってすぐに命を取られるかもしれません。或いは、「もう少し
生きて、まだ迷っている者たちを励ましていく働きに使われる」のかも知れません。どちらにせよ、
その時は、「分かりました」と言ってその人達を励まし、そのあと捕えられたなら、主に命をお預け
すればいいのです。それが私達の生き方です。ですから、自分の頭の中で、「このようにして結果を
出そう」、「このようにして貰わなければダメだ」と考える事自体が間違っているのです。私達は、
全能主が言われた事を淡々とやって行けばいいのです。そして、結果は全能主に委ねて行けばいいの
です。それならば、私たちもこの患難時代を通って行けるのではないでしょうか。
(結) 最後に、私達の教会に与えられている御言葉を読んで終わります。「わたしは、あなたの前に、
誰も閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少しの力しかなかったが、わたしの
言葉を守り、わたしの名を否まなかったからだ。」(3:8)「あなたは、忍耐についてのわたしの
言葉を守ったので、地上に住む者たちを試すために全世界に臨もうとしている試練の時に、あなたを
守ろう。」(3:10)「勝利を得る者を、わたしの全能主の聖所で、柱としよう。そして…全能主の御許から
出て、天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名をその者の上に書きつけよう」
(3:12)これが、私達の教会に約束された御言葉であり、それがずっと変わらずに示され続けて
いるのです。だからこそ、今日の黙示録の解き明かしがあったのです。どうぞ、この幸いなメッセージを
聞いた事を感謝して下さい。そして、私達は全能主の言葉を聞いてそれを守り、小羊の花嫁として
聖なる都に迎えられる信仰者になろうではありませんか。
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