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2024年3月24日

私たちの求めるところ、思うところよりも、
遙かに超えて成し遂げて下さる全能主

黙示録1:1~6 エペソ3:20


(起) エペソ3章20節の御言葉から、「私達の求めるところ、思うところよりも、はるかに越えて

成し遂げて下さる全能主」
を体験して行く信仰を学んで行きたいと思います。


(承)さて、毎年黙示録を読み始めると、今まで気付かなかった事が、心に留めさせられます。

今回「患難時代に襲って来る災害のほとんどは、サタンが行っているのではなく、「全能主が

御使いを通してなさっている事柄だ」
ということに、気付かされました。それは、殆どの災害には、

御使いがその災いを起こすために使われているからです。
8章からは、御使いがラッパを吹きならす


たびに、地と海と太陽などに災いが起こります。また、第六のラッパでは、四人の御使いが人間の

三分の一を殺すために解き放たれたとあります。このように見て行くと患難時代の災いは、全能主の

指によって、全てが起こされていることが分かります。ただし、例外として13章の災いは、サタンが

666の獣を使って聖徒に災いを及ぼしています。それは、「獣が聖徒に戦いを挑んで勝つことが

許された」からです。このように、全体的には全能主が御使いを使って患難時代のあらゆる災いを地に

起こし、「ここに、聖徒たちの忍耐と主を信じる信仰が試されている」ということです。そこでふと私が

思ったのは、御使いは私達にとって味方であるはずなのに、その御使いによって、私達クリスチャンが

恐ろしい目に遭うという事です。何故でしょうか。その答えは、七つの教会に宛てられた手紙の趣旨を

理解すると分かって来ます。その趣旨とは、全ての教会に共通するメッセージとして「耳のある者は

御霊が諸教会に言うことを聞きなさい。」「見よ、わたしは、すぐに来る。あなたの冠が誰にも奪われ

ないように、自分の持っているものをしっかり握っていなさい」
という内容です。即ち、この7つの

教会への手紙には、全てのクリスチャンが「勝利を得る者」となり、「聖なる都に入れられる者と

なりなさい」
という、全能主の願いが根底にあるのです。この「勝利を得る者」とは、黙示録21章7節

に書かれた内容が、黙示録を読み解くキーワードです。即ち、「勝利を得る者は、これらのものを相続

する。わたしは、彼の全能主となり、彼はわたしの子となる」
という全能主の約束が、この黙示録の

書かれた目的だからです。ということは、クリスチャンの中でも、実際には信じた者の生き方をして

おらず、心は全能主と繋がっていないという人たちもいますので、全てのクリスチャンが御国に入れら

れるのだとは、確定していないということです。なぜなら、「もし、私たちの信仰が、熱くもなく、

冷たくもない」
なら、「あなたは生ぬるいので、私の口から吐き出そう」と言われているからです。

これが、患難時代を通って行くクリスチャンだけのことではなく、全ての世紀に渡って言われている

クリスチャンへのメッセージなのです。
何故なら、黙示録が書かれたメッセージは、初代教会の使徒

達の生きている時代から指摘されていたメッセージであり、黙示録は患難時代に入る人々だけに書か

れたものではないからです。

(転)では、全能主から「わたしは、彼の全能主となり、彼はわたしの子となる」と言われるクリス

チャンとは、どういうクリスチャンなのでしょうか。それは、主を信じた者として「主に委ね、主に

信頼し、主が成し遂げて下さる」という信仰の一本道を通している、聖徒のことです
。クリスチャンと

言われる人々の多くは、自称クリスチャンが多く、主を信じたと言っても、自分を信頼し、自分の思い

通りに生き、自分の身勝手な祈りばかりして、御利益を追求し、全能主を自分の為に利用して歩んで

いる人々が多いのです。決して聖書に書かれている通りの生き方をしていないのが現実です。私達の

教会は、詩篇37篇5節の御言葉によって導かれて来た教会です。実は、この詩篇の御言葉は、新約

にも同じように語られているところがあります。エペソ3章20節に「どうか、私たちのうちに働く

御力によって、私たちの求めるところ、また、思うところよりも、はるかに越えて成し遂げて下さる

全能主に、栄光があるように」
とあります。全能主は、私達が考えもしないような事をして下さる

方です。モーセの時代に、天からマナが降って来るなんて、誰が考えたでしょうか。これは、私達の

求めるところ、思うところをはるかに越えた全能主の御業です
。全能主にはできないことがありません。

ですから、主を信じた者は、自分を信じるのではなく、いつも全能主を信じて、「まず、全能主の国と

全能主の義を追い求め、全能主に成し遂げてもらう」
のです。私達はその信じる心を持つべきです。

また、ピリピ2章13節では「全能主はあなた方の中に働いて、御心のために、あなた方に志を起こさせ、

事を行わせて下さる」
とあります。信じた者は、「あれがしたい。これがしたい」という自分の願望の

ために生きるのではありません。むしろ、「主よ、これはどうしたらいいですか?」と聞いて、そこに

全能主の御心を求めるのです。そして、全能主の御心が示され、志が与えられたなら、私達はそれを

一生懸命やります
。しかし、私達の一生懸命さでそれを実現するのではなく、どこまでも、主が事を

行わせて下さるのですから、自分の思い通りに判断してはいけません。即ち、主が成し遂げて下さる事を

信じて、忍耐して待つのです。この事を本気で信じて行くのが、私達クリスチャンの生き方です.

(結)初めに申し上げた通り、患難時代の災いは、全能主が主体となって行われる出来事です。この

患難時代のメッセージは、患難時代を通って行く聖徒たちだけに、当てはめて書かれた書ではありま

せん。この黙示録は、2000年も前の初代のクリスチャン達に対して、書かれていたものですから、

その当時の聖徒たちや、今生きているクリスチャン達に対して書かれているものです。ですから、

イエス様の時代から今日の全てのクリスチャンに宛てられた、共通のメッセージです
。ということは、

「小羊の血と、彼らの証の言葉とによって、その龍に打ち勝ち、死に至るまでも自分の命を惜しまな

かった」という
生涯を送る、「勝利を得るクリスチャンの歩み」の為に書かれたのです。どうか「私達の

求めるところ、思うところよりも、はるかに越えて成し遂げて下さる全能主」
を信じ切った歩みをして

行きましょう。全ての事は、全能主の御手の中でなされる事ですから、私達は今も、また患難時代の

真っ只中に入っても、何も恐れる事はありません。ただ、もう自分の願いや思いに(こだわ)るのではなく、

全ては主の手の中にあるのですから、信頼して信じ続けていけば良いのです。私達にとって強い者、

弱い者という人間の能力は関係ありません。なぜなら、私達が持っている力で何かをする訳ではなく、

主が成し遂げて下さる事柄ですから。故に、主に委ねる心を持って「私を全能主の御心のために使って

下さい」という献身の心を献げて行きましょう。どうか、私達の求めるところ、思うところよりも、

はるかに越えて、成し遂げて下さる全能主の御業を、見せて頂こうではありませんか。


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