2024年3月17日
『主に信頼し、主が成し遂げて下さるという信仰のあり方を
地上の現場で実践する』
テトス 3:4~8
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(起) 8節の「全能主を信じてきた者たちが、数々の立派な働きに励むことを心掛けるようになるため
です」という、パウロの言葉に込められた真意を理解し、「純粋に主を信頼し、純粋に主が成し遂げて
下さる」という信仰のあり方を、「今生きている地上の現場で実践して行くこと」を学んで行きたいと
思います。
(承)さて、私はこれまで、さまざまな伝道者の伝記を読んだり、いろいろな証を見聞きしてきました。
そこには「数々の立派な働き」が証されています。私はそれらを「素晴らしい証だな」と思うと同時に、
たいていの場合、「自分には、出来そうもないな」と落ち込んでしまうのです。なぜなら、その伝記の
証には「主の恵み、主の憐れみによって、その人が用いられている」という喜びがあるのですが、何か
違和感を感じている自分がいるのです。その違和感について考えている中で、最近感じることは、
それらの証には「成し遂げられた主」が純粋に証されているのではなく、主に用いられた「その人の
存在が浮き彫りになって、自分の働きの実を認めて欲しいとする裏腹な心が見え隠れしている」からです。
ですから、その伝記を読む時、私にとっては「主に選ばれた特別な人は用いられるが、力がない自分には、
同じようには証ができないな」と思えてしまうのです。つまり、主のみわざの証の中に「人の誇り」が
混ざっているように感じるのです。それが、私が感じた違和感の正体でした。
しかし、「私が励まされたある伝道者の伝記」があります。それはジョージ・ミュラーさんです。
彼は祈りの人と呼ばれています。とにかく祈って、祈って答えを待つ。そして、自分の思惑で
動くのではなく、「主に動いて頂き、主に成し遂げてもらう」という、生き方を徹底していました。
その証には、自分の力や一生懸命さによるのではなく、「ただ主が成し遂げて下さった御業なんだ」
という感謝と喜びが伝わってくるのです。私はこれを読んだとき、「これだ、この生き方をしたい」と
思いました。「まず純粋に主に信頼し」、「純粋に主が成し遂げて下さる」という事を味わう生き方。
100%主が成し遂げて下さるなら、無力な私にも、この「立派な働き」をさせてもらえるのではないか、
と思ったのです。
(転)では、100%主が成し遂げて下さる「立派な働き」というものは、どうすれば味う事が出来るのかを
考えて行きたいと思います。それは一言でいえば、全能主に全面的に信頼していく道を通すということ
です。それは、主の前に自分が罪人だと認め、へりくだって、自分を主に明け渡すことから始まります。
全能主は、自分を無力だと認め、へりくだってくる者を放ってはおかれません。なぜなら、全能主は
「主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」ということを、人に味わわせたいと願っておられるからです。
その生き方は、1日24時間、「これして下さい、あれして下さい」ではなくて、「主よ、これはどう
したらいいですか。このことはどう考えたらいいですか」と言って、自分の考えでなく、「いつも主に
預け、主のお考えで成し遂げて頂く」という生き方です。「自分が一生懸命やってきた、その一生懸命な
働きを主が喜んで下さり、私を用いて下さった」というようなものではありません。それでは、自分の
誇りを現わすことになり、認めてもらいたいという思いが見え隠れしてしまいます。それは、全能主を
利用したことと同じなのです。主が成し遂げて下さるのに、どうして罪人に誇れるところがあるで
しょうか。むしろ感謝するのみです。私たちは、イエス様のアオリストの救いに乗っ掛かっただけの者
です。ですから、働きにおいても、主がやって下さることに乗っ掛かるのです。そうすれば、それが、
自分の思いと違ったとしても、「良かった」となります。人は自分のやったことに対する手応えを
感じたいと思いますが、私達の努力による行いによって手応えを誇ることはできません。私たちは
罪人であり、ただ信じさせて頂いただけの者です。だから「主が成して下さった」なら、私たちはむしろ
下手に出て、へりくだって感謝することです。もし、私たちが少しでも誇ることをすれば、その働きの
報いは、もうすでに受け取ってしまったことに成ります。
(結)ですから、全能主を信じた私たちは、自分の努力による手応えを誇るのではなく、むしろ、
「主が成し遂げて下さる立派な働きに励むこと」を心掛けて行くことです。即ち、信仰の実を
現場で表して行くことです。その例は、「信仰によってイサクを献げた、アブラハムの信仰の実」
を参考にすることです。その実は、実際にアブラハムが献げた行いの実ではなく、主に
信頼するところから出た、全能主が成された実です。というのは、アブラハムがイサクを
献げたのではなく、結果的に「全能主が備えられた一頭の雄羊を、アブラハムは献げた」だけの
ことです。これが「まず純粋に主に信頼し」、「純粋に主が成し遂げて下さる」という信仰の
生き方の見本です。アブラハムは主を信頼しました。だから、その信頼する信仰を見られた全能
主が、角を藪にひっかけた羊を備えて、全能主が信仰の実を与えたのです。ですから、
アブラハムは、ただ「主は備えたもう」と言って感謝しました。全能主は「私達が到底出来ないと
思うことでも、最後まで信じる信仰を求められます。」その時、私たちも、アブラハムのように、
信じた者として主に従って行く信仰の実を、証として表し続けて行くのです。それは、自分の
努力ではありません。本当に信頼して行く信仰の心だけです。その中で、「主が成し遂げて下さった
実を味わって行く」のです。私たちは、その生き方を心掛けて行けばいいのです。即ち、主に
全部任せ、主に委ね、主に信頼して行くのです。そして、「信じる者に働く全能主の力が、どんなに
偉大かを見させて頂き」、この地上の命を閉じていければ、最高です。どうか、この信仰のあり方を
「今生きている地上の現場」で、実践して行きましょう。
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