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2024年3月10日

「自分を見切る」という決断の大切さ』

第Ⅱコリント 12:7~10


(起) パウロさんが「私が弱い時にこそ、私は強いからです」と言った御言葉の真意を理解し、「自分を

見切る」という決断の大切さ
を学びたいと思います。

(承) さて、パウロさんは、12章7節にあるように、肉体にとげを負っていました。それは目の

病で今日(こんにち)では、バセドー病という「目が不自由になる病気」ではないかと言われています。

ですから、手紙を書くにも、伝道旅行をするにも、人の助けが必要でした。そこで彼は、三度も主に

癒しを願って祈りましたが、その祈りは聞き入れられず、代わりに主はこう言われました。
「わたしの

恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱いところに完全に現れるからである」
と。彼は御言葉

通りに、肉体の弱さを持ちながらも、手紙を書くために書記役が与えられ、口述筆記によって多くの

手紙を諸教会に送り届けました。また、伝道のための協力者も与えられ、3回も伝道旅行を全うし、

主の恵みを証したのです。まさに彼は自分の弱さを補って余りある働きをしました。本来なら、自由な

働きの為に肉体のとげが取り除かれて、強さを取り戻したいと願います。しかし、全能主の御心は、

そのとげを取り除くことではなく、ハンディを抱えたままの彼に、「人が弱い時こそ、強いのです」

という事を学ばせ、「肉の力に()らず、へりくだりの中に、主の恵みが完全に現れ、主が成し

遂げて下さった」
と、言わしめることでした。ですから、パウロさんは自らの弱さを認める中に

あって、多くの主の助けを味わって「私が弱い時にこそ、私は強いのです」と証したのです。


(転)それでは、私たちはどうでしょうか。「自分は弱い、弱い」と言いながらも、それを心底認めて

いるでしょうか。先日ある兄弟がこう告白しました。「自分は弱さを認めていながら、それでも自分に

頼ってやって行こうとしてしまう」と。
これは、実に正直な告白です。彼の本心は、弱いままの自分では

(いや)
だからです
本音は、主に祈ってみんなと同じように「自分もできる」という強さを味わわせて

貰い、「強くなった自分を見せたい」というところでしょう。だから、祈りつつ自分の力でやってしまう

のです。しかし、その祈りは聞かれません。なぜでしょうか?それは、主を利用しようとする祈りだから

です。
ただ自分のために、自分の願望を押し付ける祈りは聞かれません。祈りとは、自分の利益の為の

ものではありません。「主の御心を理解し、主のお考えの中で、主に成し遂げて頂くことです。」だから、

祈りとは、「こうして下さい、ああして下さい」と祈るのではなく、「主よ!これはどうすれば良いので

しょうか?」と、聞いて行うことなのです。つまり、「自分で決めた通りに主に成して頂くのではなく、

主に委ねて、主に信頼して、主に成し遂げて頂くことです。」
クリスチャンの生き方は、自分の思いを

祈って実現することではありません。ひとえに、主の御心を行うことです。
そこには、答えを待つという

忍耐が求められます。
ところが、人は忍耐が(きら)いですから、自分に都合の良い判断で、手っ取り早く、

自分の力でやろうとするのです。それでは、「まず、全能主の国と全能主の義を追い求めなさい」という

生き方には成りません。私達は、自分で自分を救うことが出来ませんでした。ですから、主がして下さった

救いを信じたのです。ならば、信じた後も、私達を救って下さった方に頼り、全面的に主に成して頂く生き

方をしていくべきです。それなのに、主に頼り、自分にも頼って行く二心の生き方は、主を利用するだけに

なります。
その信仰は、主を信じる心がないのと同じです。「弱いです、罪人です」と口先で言っても、

パウロさんのように自分の弱さを認めて、全面的に主の恵みを味わって行くのでなければ、「自分の思い

通りに生きて、満足しようとする」未信者の生き方と同じになります。

(結) では、どうしたらいいのでしょうか。それは、「弱い自分、駄目な自分、力のない自分」を知ったら、

そういう自分を見切ることです。即ち、「そのダメな自分には頼らない。ダメな自分には期待しない。

もう駄目な自分というものを完全に見切ることです。
」罪人である私たちは、イエス様のアオリストの

救いを頂いて、過去、現在、未来まで一切の、罪人である自分というものを赦して頂きました。だから

「これからイエス様にあって生きて行こう。イエス様の考えで生きて行こう」
と一途に始め出すのです。

そうすれば、その生き方の中にイエス様の恵みが現れるのです
。パウロさんはそれを味わい、純粋に、

一途に、全能主に頼るという道を歩んだのです。これは「自分を見切って、一途に主にあって生きる」と、

決める所から始まります。自分の肉を見切ったならば、100%全能主に頼る道しかありません。その

切り替えなくして、信仰の道はありません。そうすれば、人生はガラッと変わってきます。もはや、

自分の力、自分の能力、自分の考えではないのです。全能主の力、全能主の考えの中で、私達は生きて

行くのです。「そのように生きる為に、私達はイエス様にあって新しく造られたのです。」「もう自分の

肉にあって生きていても、肉に従って生きているのではない」
からです。こうして、自分を見切り、主に

全面的に頼るという決断をすると、24時間「主よ、これはどうしたらいいですか」と祈り、聞いて行く

生き方が始まります。それは、「全能主を見上げ、全能主に委ねて、成し遂げて頂く。」これに徹底する

ことです。ですから、この道を決断して始めた者は、「自分は弱い者ですが、主の恵みによって成し

遂げて頂いた」という事を味わい、「わたしの恵みは、あなたに十分である」ということを証して行く

でしょう。自分の肉を引けば、御霊の声が聞こえてきます。困難な場所で、主に信頼して行くことを

味わっていくのが信仰です。自分の我を立てて行くのは、クリスチャンの道ではありません。どうか、

「自分を見切るという決断の大切さ」
を学び、「私が弱い時にこそ、私は強い」という、信仰の醍醐味を

味わって行きましょう。


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