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2024年4月14日

聖霊によって信じさせて頂き、救いを戴いたので、
最後まで聖霊の導きに従う生き方をする

 マルコ 3:28~30


(起) マルコ3章29節の「誰でも聖霊を冒涜するなら、いつまでも赦されず、永遠の裁きに定められ

ます」
という御言葉から、私達は、聖霊によって信じさせて(いただ)き、救いを(いただ)いたのですから、

「最後まで獣の印を打たず、獣を拝まなかった」
という聖徒の忍耐を貫いて行く事を学んで行きたいと

思います。


(承)さて、イエス様がしるしを行ったり悪霊を追い出したりしているのを見て、「彼はベルゼブルに

取り憑かれている。悪霊どもの親玉によって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言う人々がいました。

彼らは、イエス様自身の中にいる聖霊を完全に否定したのです。ですから、イエス様は彼らに対して、

「人には、その犯すすべての罪も全能主を汚す言葉も、赦されます。しかし、誰でも聖霊を冒涜するなら、

いつまでも赦されず、永遠の裁きに定められます」
と言われました。全能主やイエス様を汚す言葉は

赦されるのに、聖霊を冒涜する事は赦されないとは、一体どういう事でしょうか。
まず、パウロは第Ⅰ

テモテ1章13節で、「私は以前には、イエスに対して冒涜する者、迫害する者、不遜な者でした。

しかし、私はこれらの事を、キリスト・イエスを信じる心のなかった時に、無知であった為に行った

ことで、憐れみを受けたのです」
と言っています。即ち、信じた後に全能主、イエス様、聖霊を汚すなら、

それは赦されないということです。
特に、聖霊に関しては、信じた者だけがその存在を知らされる事

ですから、その恵みの御霊を(あなど)、冒涜するならば、第Ⅰコリント12章3節に「全能主の御霊に

よって語る者は誰も『イエスは呪われよ』とは言いません。また、聖霊による以外には、誰も『イエスは

主です』と言うことはできません」
とある御言葉を否定し、あえて信じた信仰を否定することですから、

それは、どんなに重い刑罰に値することでしょうか。即ち、私達の救いはキリストの贖いを信じたことで

与えられ、それは完全に聖霊によって始まりました。それなのに、もしこの聖霊を汚し、冒涜し、否定

したら、私達は救いを失い、永遠の裁きに定められます。
ですから、イエス様が「全能主やイエス様を

汚す言葉は赦されるのに、聖霊を冒涜するなら、いつまでも赦されず、永遠の裁きに定められます」


言われたのは、こういう意味なのです。ですから、私達の残りの生涯、何があっても聖霊を否定する事

だけはしてはいけません。言い換えるなら、「信じて与えられた救いを、決して否定してはいけない」

という事です。


(転)では、この事が分かったら、私達の残りの生涯、この地上でどういう歩みをして行けばいいので

しょうか。それは、これから始まる患難時代の中にあって、自分自身の救いの根拠である「聖霊を否定

せず、最後まで信仰を守り通す」という事です。この後、患難時代に入れば、全能主御自身が御使いを

使って、様々な災いを地上に起こされます。そして、私達は獣からの迫害を受けます。即ち、「ひと時と

ふた時と半時の間、
聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わった時に、全てのことが成就する」(ダニ

エル書12:7)
と記されている事が実現するのです。これは、全能主の御心であり、もう定まって

いる事ですから、私達はそこから逃げる事はできません。私達は、獣に殺され、打ち砕かれて、地上的

には「死に至るまでも自分の命を惜しまなかった」という殉教によって、この生涯を終えるのです。

「獣は、聖徒に戦いを挑んで、これに勝つことを許された」 (黙13:7) からです。しかし、その

信仰の証の中で、たった一つ残るものは、「最後まで獣の印を打たず、獣を拝まなかった」という聖徒の

忍耐
だけです。ですから、この世にあって、「名声を博する」とか、「功名を立てる」とか、そういう

ものにとらわれる必要はありません。いくらそういう事のために努力したとしても、結局は全て消え

去ってしまうものだからです。ですから、私達はもう自分のために生きるのではなく、全能主の御心の

ために生きるのです
。即ち、全能主が「これをやってくれ」と言われた信仰の行動を、一生懸命やって

行くという事です。すると、その中にあって全能主が殉教を成し遂げさせて下さるのです。決して、

私達の肉の一生懸命さ
で、成し遂げるものではありません。マルコ4章26~29節を見ると、「ある

人が種を地に蒔くと、夜昼、寝起きしている間に、知らないうちに種から芽を出して成長し、実を結ば

せる」
という譬え話があります。これは、私達は種を蒔くだけで、その後、種から芽を出させ、成長させ、

実を結ばせて下さるのは全能主であるというメッセージです
。ですから、私達は変に自分自身に期待

せず、「ただ、やりなさい」と言われた事をやって、後は主にお任せし、主に成し遂げて貰うのです。

私達は、そこまで主に委ね切っていいという事です。それが、この地上での私達の信仰の在り方です。

私達の信仰のスタートはどこまでいっても聖霊の働きによるのですから、最後まで「聖霊の導きに

従って生きる」
という、その意識をはっきり持って行こうではありませんか。

(その為に毎日、御霊の声を聞いて、ノートに記して行く習慣を、身に付けて行くべきです。)

(結)こうして、聖書全体を通して語られている大事なポイントは、「主に信頼せよ。主が成し遂げて

下さる」
という事です。「主に成し遂げて貰う」という事は、決して私達が楽をするという事では

ありません。私達は、主が成し遂げさせて下さる事を信じて、やるべき事をやって行くのです。

しかし、私達は、知らないうちに、「自分の功績にしたい」とか、「自分で納得したい」とか、「自分が

満足したい」という意識によって、自分の肉の力に頼ってやろうとしてしまいます。それは、聖霊で

始まったものを、肉で完成しようとする事ですから、その考えは改めて下さい。私達は、聖霊によって

信じさせて(いただ)き、救いを(いただ)いたのですから、最後まで聖霊の導きに従う生き方を貫いて

行くのです。
即ち、「主に信頼し、主が成し遂げて下さる」事をどこまでも信じて行くのです。どうか、

「主が成し遂げて下さる」
という約束に私達の心を向けて、最後まで信仰を守り通して行こうでは

ありませんか。(信仰は地上の現場で表すものです。)


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