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2024年2月25日

被いを取り除かれた顔で、主の栄光を反映させ、
主と同じ似姿に変えられて行く

第Ⅱコリント 3:12~18


(起) 第Ⅱコリント3章12節~18節の御言葉から、「被いを取り除かれた顔で主の栄光を反映させ、

栄光から栄光へ主と同じ似姿に変えられて行く事」
を学んで行きたいと思います。


(承)さて、13節では、「モーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいと

して、顔に被いを掛けた」
とありますが、何故モーセが顔に被いを掛けたのでしょうか。それは、モーセが

全能主の御前に出て十戒をもらった時、全能主の栄光に包まれ、その顔は輝いていました。しかし、

その輝きは永遠に続くものではなく、少しずつ消え去って行くものでした。ですから、モーセは民の

前に出た時に、あえて自分の顔に被いを掛け、全能主の栄光が消えて行くところを民に見せないように

したのです。しかし、モーセが顔に被いを掛けてしまうと、イスラエル人達はモーセの顔の輝きを見る

事が出来ませんでしたので、イスラエル人の心は鈍くなってしまったのです。そして、その被いは今日(こんにち)

に至るまで、彼らが古い契約を朗読する時、その同じ被いが取り除かれないままで残っていたのです」

(14節)。
その為、イスラエル人の思いは、今日(きょう)も鈍くなっており、全能主の栄光を反映する

事が出来ないでいるのです。それをパウロは別の言い方をして、15節では「今日まで、モーセの書が

朗読される度毎に、被いが彼らの心に掛かっているのです」
と言い換えています。即ち、「イスラエル

人達は、自分の心に被いを着けて、御言葉を理解出来ないようにしている」という言い方になって

います。これは、重大な悲劇です。なぜなら、彼らが心に被いを着けた為、彼らの関心は自分勝手な

地上の御利益ばかり求めるようになり、キリストによる新しい契約である永遠の命に心を向けようと

しないからです。彼らが御言葉で約束された永遠の命に気付かなければ、大変な損失を被ることになり

ます。そして、いつまでも全能主の栄光を見ることが出来なくなるのです。しかし、その被いは、彼らが

キリストに心を向ければ、取り除かれるようになるのです。


(転)さて、このことは私達にも言える事です。どういう事かと言いますと、私達は毎週教会に来て、

霊的なメッセージを聞き、霊的な価値観と霊的な幸いを学んでいます。ところが、教会から一歩外に

出ると、悪魔が支配する世界観の中に身を置くことになり、私達は無意識のうちに霊的な心に被いを

掛け、世の価値観の中に染まり、当たり前のように世的な考えの中で仕事をするようになります。

すると、メッセージを通して学んだ霊的な価値観と、永遠の命の幸いは他人事になり、未信者と同じ

ような価値観の中で、当たり前のようにして自分自身の肉の力で結果を出そうとし、損得の中で生きる

方向に向いてしまうのです。それが世で仕事をしているクリスチャンの現実です。しかし、それでは

キリストの栄光を反映することは出来ません。なぜなら、私達がキリストの栄光を輝かす為の顔に、

自ら被いを着け、クリスチャンとして、イエス様から頂いたアオリストの救いの栄光を隠して、未信者と

変わらない生き方をすることになるからです。それでは、イスラエル人に対して指摘されたように、

クリスチャンの思いもまた鈍くなって行くのです。


(結)では、顔の被いを取り除くにはどうしたら良いのでしょうか。16節を見ますと、「人が主に向く

時には、その被いは取り除かれるのです」
とありますので、私達が主に心を向けて、顔の被いを取り

除けて行けば、
私達はいつも全能主を見上げ、この世の現場の中で信仰を表して行く事が出来ます。

信仰を表すとは、何か特別な事をするという事ではなく、私達が生きている現場で、1日24時間、

いつも主に祈って行動するという事です。いつも祈って行えば、主との繋がりを通して「主が成し遂げて

下さった」という幸いを味わって行く事ができます。
そこには、当然の如く、喜びが生まれてきます。

すると、皆さんが味わったその喜びは、未信者の中に反映し、18節にある通り「主の栄光を、鏡【未信者】

に映して見る」ことにより、栄光から栄光へと、主と同じ似姿に変えられて行くのです。」
即ち、イエス

様が父なる全能主を見上げて、十字架に掛けられた時「父よ!彼らを赦して下さい。彼らは何をして

いるのか、分からないのです」と言われて、息を引き取られました。すると、ローマの百人隊長は、

「この人は、真に全能主の子だった」と気付き、百人隊長はキリストの栄光を反映したのです。私達も

キリストを見上げて、常に祈りつつ仕事をしていく時、自分の損得から離れた生き方が始まります。

そして、アオリストの救いを頂いた者として、主を見上げて歩む時、世の人々から「どうすれば、

そのようにいつも喜んでいられるの!」と、未信者から感嘆の評価を受けるようになります。それは、

私達がただ、キリストに心を向けていたから、御霊がそのようにして下さったのです
。自分が、自分の

栄光の為に努力したから、喜んでいたのではありません。むしろ、そのことは、未信者の前に被っていた

顔の(おお)いが、キリストによって取り除かれ、自分に頼らず、主に頼り、どんな事でも祈って

行動した時、「主が成して下さった」という感動を味わっていたからです。例えば、新しい一日が

始まった時、「今日も成すべき仕事のために働かせて下さい」と祈り、会社に出勤した時も「自分に

与えられた任務を精一杯やらせて下さい」と祈るのです。或いは、何か物を無くした時も「主よ、

助けて下さい。失った物に目を止めさせてください」と祈るのです。私達罪人は、自分の力では何も

できないのですから、1日24時間、何をやるにしても、何を考えるにしても、祈り心が必要です。

祈る心が常にあれば、その結果が表れた時、必ず主への感謝が生まれます。そのようにして、私達は

いつも主に心を向け、日常の中に表される主の栄光を反映して行くのです。
それを地上の現場で表し、

証しして行く事が、私達の信仰のあり方です。どうか、意識を変えて下さい。祈りの中で一週間歩んで

下さい。すると、次の礼拝に出る時には「主がこんな事をして下さった」という喜びの証しを携えて

来る事が出来るでしょう。そのように、私達は被いを取り除かれた顔で、主の栄光を反映させ、主と

同じ姿に変えられて行くのです。


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