2024年2月18日
『私たちが、全能主の為に生きて行く生涯のあり方』
第Ⅰペテロ 3:17~22
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(起) 第Ⅰペテロ3章18~20節の御言葉から、「イエス様が、私達を全能主の御許に導くために、
どれだけの苦悩を背負われたことか」を考え、その上で「私達が、全能主の為に生きて行く生涯のあり方」
を学んで行きたいと思います。
(承)さて、第Ⅰペテロ2章22節では、「キリストは罪を犯さず、その口には何の偽りも見出され
ませんでした」とあります。また、「キリストは、自らは義なる方であるのに、不義なる人々の為に、
苦しまれたのです」(第Ⅰペテロ3:18)と。本来ならば、イエス様は十字架の苦しみを受ける必要は
ありませんでした。しかし、主は十字架につけられ、罪人と同じように扱われたのです。ならば、十字架
上で恨み、辛み、腹立ちをすべて人間にぶちまけてもおかしくありませんでした。しかし、
イエス様は逆に「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」と、
十字架上で叫ばれたのです。そればかりか、十字架で息を引き取られた後、ハデスにまで降されたの
です。このハデスは、罪人達が全能主に裁かれるために集められる場所ですから、呪いの場所です。
はっきり言って、全能主の御子がそこまで降る必要は一切ありませんでした。しかし、イエス様は
「私達の罪深い肉を担われた」が故に、その罪深い肉の報いとして、十字架の苦しみだけでなく、
ハデスにまで行かなければなりませんでした。そして、3章19~20節を見ると、「キリストは、
その霊においてハデスにいる霊たちの所にも行って、宣べ伝えました。この人々とは、昔、ノアの時代に
箱舟が造られていた間、全能主が忍耐をもって待っておられたのに、従わなかった者たちのことです」
とあります。他の書物では、「宣べ伝えた」ではなく「福音を語られた」とも書いてありますが、イエス
様はノアの時代に全能主の宣告を無視した者達に対して、あえてハデスに降って語られたのです。
すると、そのイエス様の言葉に心を向けて、遜りの心を持った者達はイエス様の凱旋の行列に加えられ、
天に上げられました。コロサイ2章14~15節を見ますと、「全能主は、私たちを責め立てている
債務証書を無効にされました。全能主はこれを完全に破棄して、十字架に釘付けにされました。そして、
全能主は、すべての支配と権威と武装を解除し、キリストによって、それらを凱旋の行列で引き回し、
支配と権威をさらしものとされたのです」とあります。これは、どんなに悪質な罪を犯した者であろう
が、その者が自分の罪に気付き、自分は罪人であるという事を正直に認めたなら、イエス様の傍らで
十字架に付けられた罪人の救いと同じように、その者には恩赦を与えると、全能主がお決めになった
からです。ですから、イエス様の凱旋の行列に加えられたのです。それは、イエス様の死によって
罪の代価が支払われた為、その時に全世代の人間の罪の贖いが成就し、旧約時代の人々も、債務証書を
全部無効にされたからです。そして、ハデスとは、全能主の権威に基づいた裁きの支配の中にある場所
ですが、その権威と支配をイエス様が解除し、ハデスの苦しみの中にいた者達を救い出されたのです。
何とすごい事でしょうか。私達を全能主の御許に導くために、全能主の御子イエス様がここまでの事を
して下さったのです。
(転)イエス様がここまでの事をして下さったのですから、この救いに与った私達は、これからの生涯を
主の為に生きて行くのは当然の事でしょう。それは、イエス様に感謝すると同時に、全能主に心を向けて
献身の生涯を送って行くことです。これは、私たちの自然な心の行動です。即ち、全能主の御許に導か
れる者として、私達も地上の歩みの中で、たとえ、全能主のために泥を被る事があっても、それは
背負って行くものです。しかし、その泥は、自分の努力で背負って行くものではなく、主が成し遂げて
下さる中での努力です。この信仰の努力は、地上の現場で、一日24時間働かせて行くものです。即ち、
祈りと信頼の中で行っていく努力です。この地上では、この生き方は馬鹿にされる事があるかも
しれませんが、これがクリスチャンとしての地上の生き方なのです。しかも、本来の私達の生きる
場所は、地上ではなく、天の父の御許ですから、地上では、たとえリスクを負う損な生き方であっても、
私達は天での永遠の命に預かるのですから、主に大胆に信頼し、最後まで祈りの中で、生きて行く
信仰の実践を表して行くのです。
(結)ですから、もう自分の為に生きるのは止めましょう。私達の信仰は、世の現場で現していくもの
です。ですから、教会では信仰を意識するが、一旦世に出たら、全能主に心を向ける事を忘れ、全部
人間的な判断で決めて仕事をするというのは間違っています。世と教会の行動を区別してはいけま
せん。教会の中でも信仰、世の仕事に携わっても信仰です。即ち、全て祈ってするのです。どうか、
自分勝手な努力で生きるのを止めましょう。私達の命は自分のものではありません。自分で自分の命を
造った訳ではないからです。ですから、自分に頼っても無駄です。私達の命を造って下さったイエス
様がおられるのですから、そのイエス様に祈り続けましょう。私達が一歩教会を出たら、悪魔の世界
です。ですから、常時祈りです。全能主はイエス様を通して祈る祈りを聞いて下さいます。どうか、
いつも主の事を思い、主に聞いて歩む道を貫き、その信仰が通用するかどうかを試して、信仰の醍醐味
を味わっていこうではありませんか。
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