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2024年2月11日

信じるとは、地上の現場で信仰の行為を表わし続けていく事』

ルカ福音書 23:32~43


(起) ルカ23章32~43節の、イエス様と一緒に十字架につけられた二人の強盗の発言から、

「信じるとは、地上の現場で信仰の行為を表し続けて行く事である」という聖書のメッセージを学んで

行きたいと思います。


(承)さて、イエス様が十字架につけられた時、二人の強盗もイエス様を挟んで三人が並んで十字架に

つけられました。そして、そのうちの一人がイエス様に対して「あなたはキリストではないか。

それなら、自分を救ってみよ。そして、我々も救ってみよ」
悪態(あくたい)をつきました。この悪態は、

ただ自分自身が助かりたいという自分勝手な罵倒(ばとう)です。この地上で生きている人間は、地上で

幸いを得ることしか考えていませんので、自分の利益が全てです。その損得の心に訴え懸けて誘惑

してくるのが、ルシファーの常道手段です。ルシファーはこの世の君ですから、ルシファーに頭を

下げれば、地上の富を与えてやると誘惑して来ます。しかし、この犯罪人のように、ルシファーに

(そそのか)
されて盗みをし、一時はいい思いをしても、最後には十字架につけられて裁きを受けるの

です。その時には、ルシファーは絶対に助けてくれません。「自分で始末するが良い」と言って

見捨てるのです。しかし、「自分で始末するが良い」と言われても、十字架上まで引きずり出されたら、

もう自分ではどうする事もできません。ただ殺されて終わるだけです。ですから、この地上の損得

ばかり考えて、ルシファーに騙されて生きて行く人生は、最後にはその付けが全部自分に跳ね返って

来るだけです。


(転)しかしながら、「私達はそういう虚しい人生から救われ、全能主に生ける望みを置いて、生きて

行ける者」とされました。それは、全能主が送って下さったイエス様が、罪の中で泥まみれになって

いた私達を贖い出して下さったお蔭です。それ故に、地上の富に望みを置くのではなく、「天に約束

されたパラダイスの中で生きて行ける道」が開かれたのです。ですから、一度は地上にあって死んだ

としても、死後には復活させられて、二度と死を味わう事のないパラダイスの中に入れて頂けるのです。

ならば、私たちの地上の歩みは、ただの損得の中に生きて行くのではなく、全能主に対して、残りの

人生を地上の現場で信仰の行為を表し続けて行くのが、私達の生きる道です。
即ち、私達が生きている

この世の現場で、自分の信仰を表し、
「信じる者に働く全能主の力が如何に偉大であるか」を味わって

行く
のです。それを表したのが、もう一人の犯罪人でした。彼は、イエス様に悪口を言った犯罪人を

たしなめて、「お前は同じ刑を受けていながら、全能主を恐れないのか。俺たちは、自分のやった事の

報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていないでは

ないか
」と(いさ)め、そして彼はイエス様に「あなたが御国に入られる時には、私を思い出してくだ

さい
」と言ったのです。すると、主は「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいます」と救いを

約束されました。このイエス様の救いを引き出した犯罪人の言葉は、なかなか一般の人には言えない

表現です。なぜなら、一般の信仰のない人は、地上の人生しかないと思っていますから、イエス様の

贖いに望みを置けないからです。
地上にしか望みを置けない人は、自分の罪を他人の所為にしたり、

弁解したりして、自分を守り、罪人である事を否定しようとします。それは、この地上の損得だけで

生きているからです。しかし、信じた私達は、主に望をおいた犯罪人と同じように「自分自身が罪人

である」という事実を正直に認め、イエス様に心を向けました。だから、「今日、あなたに救いが

あります」と言われたのです。これが、聖書に記されている真理です。ならば私達は、自分が罪人で

ある事を隠したり誤魔化したりせず、たとえ失敗して叱られる事があったとしても、そのお叱りの

言葉は、そのまま聞いて心に留めて、改めて行くべきです。心に留めると、「またやってしまった。

ダメな人間だ」と思い知らされてしまうのですが、そこにイエス様の救いがあるなら、「私は失敗を

繰り返すようなどうしようもない罪人ですが、どうかお助け下さい」と祈って行く特権があります。

しかし、その情けない状態は、地上にあっては馬鹿にされ、(あき)られ、見捨てられるかもしれま

せんが、全能主はそういう者をイエス様の贖いの故に、受け入れて下さいます。そして、イエス様の

再臨の時に、私達は贖われた御霊の身体を頂き、新しく創造された霊と魂で生きて行く事ができるの

です。
ならば、その復活に与り(あずか)たいという願いを持って、この地上にあっては懸命に信仰の

努力をして行くべきです。
すなわち、それは罪人であるという自覚を持って、こんな罪人の自分を

救って下さったイエス様に頼って生きて行くという事です。その心を、地上の現場で表して行くのが、

クリスチャンの生き方です。


(結)この世のほとんどのクリスチャンは、ただ、メッセージを聞いて終わっています。だから、

月曜日から土曜日までは、世の価値観の中で物事を考え、生活しています。それでは信じた事には

なりません。
ヤコブ2章26節に、「霊のない身体が死んでいるように、行いのない信仰も死んだもの

です」
とある通り、教会から一歩出て、世に足を踏み入れた後、信仰の心を持って物事を考え、行動を

取っていかなければ、私達の信仰は死んだものです。
もし本当に信じているなら、世の中に出て

行っても、天に繋がっている者として物事を考えて、生きて行くはずです。
私達は、その信仰の心を、

今生きているこの現場で、その時その時、その日その日、その月その月、その年その年、ずっと表して

行くべきです。どうか、信じた者ならば、信じた信仰の心を現場で表して行きましょう。


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