2024年10月20日
『信仰に、もし行いがなかったら、
何の役に立つでしょうか』
マタイの福音書 26:69~75
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(起) マタイ26章にて、ペテロがイエス様を三度知らないと言った場面から、「信仰に、もし行いが
なかったら、何の役に立つでしょうか」ということを学んで行きたいと思います。
(承)さて、イエス様は、ご自身が捕らえられる前に弟子たちを集め「今夜、あなた方は皆、わたしの故に
つまずきます」と警告されました。すると、ペテロは直ぐさま「たとい、皆の者があなたにつまずいても、
この私は決してつまずきません」と言ったのです。しかし、イエス様は「よく、よく、あなたに言って
おきます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われました。イエス
様は、ペテロの肉の弱さを全部知っておられたからです。本来なら、ペテロは「そこまでイエス様が
言われるなら、注意しなければいけないな」と、受け止めるべきでしたが、ペテロはなおイエス様の言葉に
口を挟んで、「たとい、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは、
決して申しません」と言って、自分の正義感を主張しました。しかし、これは後で恥ずかしい結果を産む
ことになり、実に無意味な主張でした。なぜなら、私達の心の弱さは、イエス様や全能主の前には全て
知られており、いくら自分の熱心な正義感を主張しても、結局は崩れてしまうのです。実際、その後
ペテロは「たとえ死ぬ事があったとしても、絶対につまずかない」と言った自分の言葉を自分が否定し、
イエス様を三度知らないと言い、しかも、激しい呪いの言葉で「そんな奴なんて知らない」と「わめいて、
誓った」のです。そして、鶏が鳴き、ペテロはその場にいる事が居た堪れなくなり、外に出て
激しく泣いたのです。ペテロは自分で自分の大言壮語を否定して、一番恥ずかしい思いを味わったのです。
(転)では、私達はこの事から何を学ぶべきでしょうか。それは、いくら自分自身の信仰を声高に
主張しても、「行いを伴わない信仰は空しい」ということです。ペテロが主張したように「たとい、
皆の者があなたにつまずいても、この私は決してつまずきません、という言葉は、私達がよくやる「反省」と
同じです。いくら正当な反省をしたとしても、それが口だけだったら何の意味もありません。「人が
義しいとされるのは、行いによるのであって、主を信じる信仰だけに依るのではありません。」
(ヤコブ2:24)とあるからです。ですから、私達はいくら真面目振って反省をしても、
その場限りのものなら、何の意味もありません。人間は罪人ですから、自分の欠点を指摘されたり、
怒られたりすることはよくあります。そんな時、それ以上怒られたくないので「すいませんでした。
これからは、こうして行きます」と、反省を繰り返します。しかし、「こうして行きます」という、
その反省通りの行いがなければ、誰からも信用されません。次の日に、同じ場面に遭遇しても、前の
反省をすっかり忘れ去って、同じ過ちを繰り返すのです。それでは、口だけの人間になってしまいます。
では、私達はどうしたら良いのでしょうか。私たちの為す第一は、私達の命を創って下さったお方に
対して、私達は自分自身の愚かさ、駄目さ加減を正直に全部認めて、完全降伏する事です。そのお方は、
私たちの欠点を心の底まで、全て知っておられますから、「私は100%罪人です」と認める事は、
決して敗北ではありません。私たちが全能主の前に正直に降参すると、私たちは人前にも正直になります。
そして、自分を誤魔化さず、自分の非を認めて、次からは行いによって、同じ過ちを繰り返さないように、
慎みの心が出て来るのです。その時、初めて「信じる心に行いが伴い、その行いによって信仰が全うされて
いくのです。」それによって、アブラハムのように「全能主の友」とさえ、呼ばれるようになるのです。
私達は、今その心を味わう経験をしておかなければ、何もかも他人の所為にして誤魔化し、
いつも背伸びして、ペテロのように大言壮語する者になり、患難時代で辛い目に会った時
「イエス様など知らない」といって、「自分は信じていたのに、何でこんな苦しい目に遭わなくちゃ
ならないのだ」と喚いて、何もかも全能主の所為にし、イエス様の救いを放棄して、信じたことを
全否定して背教するのです。すると、その時「自分の思い通りにならないと、何もかも否定して、自分の
命は自分が創った、自分のもののように振る舞い」、「自分は躓きません」と言っていた正義感を、
すべて否定することになります。そして、「自分は罪人です」と言って、イエス様の救いを感謝した
ことが、みな嘘だった事になってしまうのです。私たちの信仰は、「単に信じていれば、それでいい」と
いう訳にはいきません。信じた者には、信仰による本気の行いが必要なのです。ですから、たとえ死ぬ様な
ことがあっても、信じた心が本物であることを見られたら、全能主は喜んで私たちを天に引き上げて下さる
でしょう。ヤコブ書に、「人が義とされるのは、行いによるのであって、主を信じる信仰だけに依る
ものではありません」(ヤコブ2:24)とある通り、信じた者は、反省して終わりではなく、反省した
事を実践して、その信仰の実を現わして行くのです。これが、信仰の「初めの一歩」、即ち信仰の
「一丁目一番地」です。
(結)こういうわけで、反省することは、誰にでも出来ます。それ以上怒られたくないからです。
しかし、真実な反省は、行いが伴います。この行いの伴う真実な反省をするには、その人の純な
信仰が必要です。それは、全能主の前にする反省ですから、本気なのです。この本気な反省を現して
行くには、心の決め事を行動に表す思い切りと、純な強い決断がいります。そこを逃げていては、
本物の信仰は始まりません。いつまでも一歩手前で躊躇して、結局は自分の我を砕かず「無理だ、
できない」という、騙しの信仰になってしまうでしょう。本物なら、出来ないと思う事でも、「それを
する」というところに飛び込みます。この決心の出来る所に、本物の信仰が現れます。どうか、
まずは全能主の前に「自分は罪人の敗北者だ」ということを認めて無条件降伏し、「信仰に、もし
行いがなかったら、何の役に立つでしょうか」と言われている御言通り、どこまでも「主を信じ、
主に頼って行っていく」本物の信仰を現して行きましょう。
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