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2024年10月27日

「辱められるに値するクリスチャンとされた事」を喜んで
伝道していく生き方』

使徒の働き 5:41~42


(起) 使徒行伝5章41節の御言葉から、「イエスの御名のために、辱められるに値する者とされた事を

喜んだ」
という使徒達のように、同じクリスチャンとして、今日の私たちの()(ざま)を学んで

行きたいと思います。


(承)さて、使徒達の福音宣教のスタート時には、まずユダヤ人に対して「全能主が、『主』また『キリ

スト』(救い主)としてお立てになったこのイエスを、あなた方は十字架につけて殺したのです」(使徒

2:36、3:15)
と、大胆かつ明確にユダヤ人の罪を語り出しました。それは、この宣言なしには、

福音の奥義は語れないからです。すなわち、キリストの死は、罪の贖いの為になされた身代わりの代価

でしたから、まず大胆に「あなた方が、救い主を殺した張本人(ちょうほんにん)、殺人者だ」という事実を突きつけて、

悔い改めを迫ったのです。なぜなら、この罪の自覚と、悔い改めがなければ、キリストの十字架を見上げる

ことが出来ないからです
。しかし、人は罪に定められると、当然のように反発しますから、祭司長たちも

反感を持って使徒達を迫害して来ました。しかし、それでも彼らは、ハッキリとキリストをメシアとして

証して行きました。少し前まで、彼らは臆病で、ユダヤ人の探索(たんさく)を恐れて、自分たちのいる所の戸を

閉めて、(ちぢ)こまっている者たちでした。しかし、聖霊のバプテスマを受けた後の弟子達は、人が変わった

ようにイエス様の復活の証人として、この大胆なメッセージをエルサレム中に語り始めたのです。


その結果、御言を聞いた人々が「激しく心を()され」、「私たちは、どうすれば良いのでしょうか」と、

驚くべき反応を示したのです。そして、御言を受け入れた三千人の人々が悔い改めて、バプテスマを受け

ました。どうして、こんな結果が出たのでしょうか?また迫害されながらも語り続ける彼らの勇気は、

どこから出て来たのでしょうか。それは、聖霊の力強い働きが起こったからです。そうでなければ、キリ

ストを十字架に付けた「殺人者だ」と言われて心を刺され、考えを入れ替えるようなことは起こらなかった

でしょう。しかし、不思議なことに、「イエスを十字架に付けよ」と叫んだ彼らが、コロッと考えを変えた

のです。
これは通常の人間の心理では考えられません。人は、罪を責められると、反発します。しかし、

聖霊の働かれるところでは、このような悔い改めが起こるのです。
案の定、この後祭司長たちは苛立ち、

使徒達を捕らえて「イエスの名によって語る事も、教える事も、一切してはならない」と、厳しく命じ

ました。しかし、弟子たちは、それでも毅然(きぜん)とした態度で「全能主に聞き従うよりも、あなた方に

聞き従う方が、全能主の前に正しいかどうか、判断して下さい。私たちは、自分の見た事、聞いた事を

語らない訳にはいきません」(4:19、20)
と答えているのです。この後で、彼らは更に(おど)された

上で釈放されましたが、使徒達は「主よ。今彼らの脅かしに目を留め、あなたのしもべたちに、この上ない

大胆さをもって御言葉を語らせて下さい」(4:29)
と、脅かしに臆する事なく、更に大胆に福音を

語って行ったのです。その結果、彼らは、再び捕えられて鞭打たれたにも関わらず、その事に対して

「イエスの御名のために、辱められるに値する者とされた事を喜んだ」(5:41)
のです。そして、

益々、彼らは福音を語り続けました。このように、福音宣教とは、世から受け入れられず、反感を買う

ような事をあえて語って行くものなのですが、そこに聖霊が働かれると、驚くような勝利が起こってくるの

です。
そのような中で、彼らは、為政者から迫害され、()け者にされていくのですが、それを覚悟の

上で、宣教を続けて行きました。そして、最終的には、使徒達は皆、逆さ十字架や火あぶりの刑で殉教して

行きます。このように、彼らにとってこの地上の人生は、決して楽しめるようなものではありません

でした。また、この世で御利益(ごりやく)を受けるような人生でもなかったのです。むしろ、いつも脅かされ、

苦しい思いばかりを味わう生涯だったのです。


(転)みなさん、このように信じた者が、「地上にあって主のために生きて行く」ならば、(はずかし)めを

受け、皆から嫌われ、場合によっては捕えられて行くかもしれません。しかし、その時には、むしろ「キリ

ストの故に辱められるに値する者、嫌われるに値する者とされた事を喜び、感謝していくのです。」なぜなら、

そこに聖霊の働きがあり、主の栄光が表されるからです。
その証しを記しているのが使徒行伝なのです。

使徒達は、元々は臆病でずっと戸を閉じて家の中に隠れているような者達でした。ところが、その彼らが、

「たとえ人々から嫌われ、脅かしを受けたとしても、伝道して行く」
と、そこに益々聖霊の働きが起こり、

「信じる人々がおびただしく増えて行った」
のです。ですから、私達の地上の生き方は、人々に受け入れられ、

もてはやされて行くものではありません。
逆に、人々から嫌われ、()け者にされ、(はずかし)められて

行くのです。これが、宣教していくクリスチャンの姿です。これから、全世界が患難時代の試みを受ける

時代がやってきます。当然、私達クリスチャンも患難時代を通り、「ここに、聖徒の忍耐がある」(黙14:

12)
と言われている時代の中に入っていきます。その時、御霊は言われます。「今から後、主にあって

死ぬ者は幸いである」
と。ですから、「クリスチャンが患難時代の前に、携挙(けいきょ)がある」と本気で

語っている教会がありますが、決して信じてはなりません。もし、そうであるなら、「クリスチャンは

眠っていてもいいこと」になります。むしろ、福音書には「眠っていてはいけません」と警告されており

荒らす憎むべき者(666)が出現した後に、主の再臨がある
と明記されていて、その後に「天の果てから

天の果てに至るまで、四方からキリストの選びの民を呼び集めます」という携挙(けいきょ)があるのです

ですから、クリスチャンは患難時代の苦しみの中を通って行きます
。その証拠に、使徒2章19~21節を

見ますと、ペテロは「自分達が今受けている聖霊の満たしは、ヨエルの預言の中に書かれていた事です」

と語り、後半の部分では、「そのことが患難時代に関連していること」を明らかにしています。即ち、

「聖霊の満たしによる福音宣教は、患難時代とセットである」
という事です。ですから、騙されては

いけません。
クリスチャンの携挙(けいきょ)は患難時代の終わりに起こることです。故に、スコフィールドの

患難時代前携挙説は、人の考えた「まやかし」です。
聖書にその根拠はありません。


(結)こういうわけで、世の人達が求めているような地上的なご利益を受ける事が、私達の信仰では

ありません。私達の救いは地上にはなく、天にあります。ですから、目を覚まし、地上では覚悟して、

使徒達のように「辱められるに値するクリスチャンとされた事」を喜んで伝道して行く生き方をして

行くのです。それが、本物のクリスチャンの()(ざま)です。


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