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2024年10月13日

全能主の前に、罪人の主権を明け渡していく』

マタイの福音書 25:30


(起) マタイ25章30節より、1タラントを貰った(しもべ)が、それを地に隠しておいたことから、

「この役に立たない(しもべ)を、最も遠い外の暗闇の中に追い出せ」
と、主人が言われた譬えから、

全能主の前に、罪人の主権を明け渡して行く
という、「信仰の初めの一歩」を学んで行きたいと思います。


(承)さて、私達は子供の頃から、「自分の感情に縛られ、自分の損得で物事を見て行く」という、

人間的な見方を当たり前にして来ました。ですから、聖書を読んでも、いつも自分の側から聖書を見、

自分に理解出来る(とら)え方で読もうとしてきました。しかし、本来なら「御言(みことば)は、(すべ)て全能主の

側から見て受け入れ、心に受け止めていく読み方」をして行くべきなのです。例えば、マタイ25章14節

以降にタラントの譬えがありますが、ここでは「主人が旅に出る時、自分の財産を(しもべ)たちに預け、

それぞれの能力に応じて、ある者には5タラント、ある者には2タラント、ある者には1タラントを預けて

商売をするように申し渡して、旅に出掛けた」とあります。私達はこの譬えを読む時、「自分は何タラントの

(しもべ)だろうか。タラントが多い方がいいな」などとタラントの量に目が向きます。しかし、「全能主の側から

見ると、人間に与えたタラントの量は関係なく、その者がどのようにタラントを用いるか」
という事だけを

見ようとされていた事が分かります。ところが、1タラントの僕は、与えられたタラントを地に隠し、

用いようとしなかった為に、「役に立たない(しもべ)、最も遠い外の暗闇の中に追い出せ」と言われている

のです。そこで、御言をそのまま、全能主の側から見て読む時、「私たちは、たとえ1タラントしか与え

られなかった僕であったとしても、その1タラントに忠実であったなら、全能主は『それでいい』と言って、

その働きを喜んで下さる」ということが分かります。この全能主の見方を本気で受け止めて、私たちも

地上の生き方を「このようにして行けばいい」と適用して行くなら、全能主の前に幸いを受けるのです。

しかし、この1タラントの僕は、「自分の主人が、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集める

酷な人である」
と考えていたため「恐ろしくなって、地に隠しておいた」と言っています。こんな(ひね)くれた

見方は全能主には受け入れられません。何故なら、信じるとは、素直さが必要だからです。この1タラントの

(しもべ)のように、(ひね)くれた肉の見方をせず、徹底的に全能主の見方、考え方に替えて、全能主を素直に

信頼して行く事が、信仰には不可欠なのです。
何故なら、それは「聖書は正しい。全能主は正しい。

イエス様は正しい」
からです。「全ては、全能主から発し、全能主によって成り、全能主に至るのです。」

この考え方が、「信仰の初めの第一歩」なのです。


(転)ですから、主のために役に立つ者とは、捻くれた見方からは始まりません。私たちは、自分の肉の

弱さを見るのではなく、全能主の考え方に立って、全能主に合わせて行くのが正しい信仰です。1タラントの

(しもべ)
の理屈がどうであろうが、全能主にとって役に立たない者の言い分は、問答無用で退けられます。

また、20章を見ると、1日1デナリで雇われた者達の譬えが出て来ます。そこには、朝6時から働いた

者達が、夕方の5時から雇われた者に(ねた)みを抱いて腹を立て、主人に向かって不平をぶちまけています。

すると、主人から「私の物を私がしたいようにしたからといって、良くないとでも言うのですか」と言われて、

恥を()いています。人間は、自由意思を持っていますから、自分の考えや自分の感情を表す事ができ

ます。しかし、いくら自分の感情で話そうが、全能主が受け入れられる言い分なら、受け止められますが、

全能主にとって受け入れることの出来ない言い分なら、一言で拒否され、問答無用で追放されてしまうの

です。
全能主にとって、人間の言い分はどうでもいいのです。どこまでいっても、私達は全能主によって

創られた被造物ですから、創ったお方の考えにそぐわなければ、簡単に退けられ、滅ぼされます。人の命を

創られた全能主には、創ったお方としての主権があるからです
それに対して、私達は何の文句も言えま

せん。ところが、実際の所、自分たちは自分の我を全能主に明け渡さず、自分の命は自分のものとして、

明け渡す一歩手前にいる人が多いのが現状です。
私たちは、創られた者です。それなら、理屈として

「文句は一言も言えない者で、無条件降伏をするべきだ」という事は分かるはずですが、最後の最後には

自分の自由意思を働かせて、自分の我を明け渡すことを拒否するのです。即ち、「無条件降伏です」と

口では言いながらも、「私は、そこまではできません」という自由意思を行使しているというのが現実です。

しかし、その自由意思の使い方は間違っています。いくら全能主に対して自分の主義主張を表しても、

最後には、「はっきり言うが、わたしはあなたを知らない」(マタイ25:13)と言われて、裁かれて

しまうのです。ですから、自分の面子のために、自由意思を使っても何の意味もありません。


(結)こういう訳ですから、私達は、魔物を抱えた罪人である現実を知ったのなら、全能主の前に無条件

降伏した者として、全能主の側から聖書を見て、その中で信仰を働かせていくなら、人知では計り知れない

幸いを味わうでしょう。
即ち、私達が命の主権を握って、自分の感情任せに生きて行く事が自由ではないの

です。むしろ、本当の自由な生き方は、自分の自由意思を正しく使って、命の創り主に従って行く事です。

私たちは、どこまでいっても被造物であり、私達の命の主権は全能主にあります。その全能主は、私達を

ゲヘナに落とす事も、天に引き上げる事もできる権威を持っています。どうか、この事を心に結び付け、

信仰の初めの一歩を踏み出しましょう。
そして、自分の自由意思を正しく使って、罪人の主権を全能主に

明け渡し
、「無条件で全能主に従います」と心を定めて、その中で生きて行く信仰の醍醐味(だいごみ)を味わって

行きましょう。


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