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2024年1月21日

心の関所を砕く』
~放蕩息子~

ルカの福音書 15:11~32


(起) ルカ15章11~32節の放蕩息子の譬えから「怒られた事を、心の関所を砕いてそのまま

飲み込み、全能主の深い愛を味わって、信仰が増していく秘訣」を学んで行きたいと思います。


(承)さて、イエス様は「放蕩三昧の果てに食べるにも困った放蕩息子を、父親が無条件で迎え入れた」

という譬えから、「考えを入れ替えた者に対しては、全能主は無条件で受け入れられる」という事を暗示

されました。しかし、無条件と言っても「単なるごっつあん」ではなく、最低限「考えを入れ替える」

という条件があります。この譬えでは、放蕩息子は本心に立ち返って考えを入れ替え「自分は天に対し

ても、お父さんに対しても罪を犯しました。」
と告白しています。彼は、自分の権利を主張して親から

財産の分け前を貰い、自分の力で生きて行こうとしました。しかし、それが上手く行かず、最終的には

食べる事にさえ困り果てて、ボロボロの姿で父親の所に帰って行きました。彼は、「私は天に対しても、

お父さんに対しても、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません」
と言って自分の

惨めさを認め、心の底から「本当に自分が悪かった」と、悔い改めの心を持って父の元に帰って行った

のです。そうでなかったら、ボロボロの服を着て父親のもとに帰って行くことは、普通なら格好悪くて

出来なかったと思います。しかし、彼は、本気で「悪かった」と心の中に受け止めて、自分が間違って

いたという事実を認めていたのです。
この息子の姿を見た時、父親は無条件で受け入れました。

なぜなら、彼は雇人の一人でもいいと思い、プライドを全て、砕いてへりくだる心を持ったからです。

頭だけの悔い改めの言葉は、人に伝わりません。人はどんなに惨めな姿になっても、僅かばかりの

プライドを立てようとします。しかし、その真実な悔い改めを持った息子の姿を見て、父親は心から

受け入れてあげようと、愛の心で迎えました。これは、私達の全能主の心です。正直言って、誰でも

自分のプライドは保ちたいと思うものです。「泥棒にも三分の道理がある」と言います。しかし、それは

全能主の前には通用しません。悔い改めとは、無条件で100%自分の非を認める事です。
そこに弁解の

余地も言い訳も通用しません。そのことを認めた者が、初めて「この放蕩息子の譬え」のように全能

主から扱われるのです。ですから、私達が全能主に受け入れられる秘訣は、自分のプライドを100%

ごっそり砕いて下手に出ることです
。即ち、罪人にプライドは必要ありませんから、プライドという

心の関所は砕いて悔い改めて、考えを入れ替える事です。これが本心からの悔い改めです。そして、

そこにこそ無条件の救いがあるのです。


(転)ところで、私達は、普段過ちを犯して怒られた時、放蕩息子のように心から考えを入れ替え、

真実な悔い改めをしているでしょうか。多くの場合、私達は小さい時から、何回も何回も同じ事で怒られ

て来ました。という事は、何回怒られても、その部分を改める事ができなかったという事です。

ですから、怒られた時素直になれません。「何でこんな事もできないの」と怒られると、「言われる

通りにできる人間にはなれない」という思いに陥り、怒られる事に反発し、無視するか、怒られること

から弁解して逃げて行くようになります。即ち、相手の責めの言葉を、自分の中に関所を作って、心の

中に入れないようにするのです
それは「自分の義を立てる事でもあり、自分は罪人ではない」と

主張する事と同じです。
その姿勢は、全能主の前に傲慢な姿をさらす事になります。私達は、むしろ

へりくだって怒られた事をそのまま飲み込んで、丸々心の中に入れることです
。すると、心の底から

その通りだと思えて、「本当に自分は間違っていた」と素直な心が出て来るのです。
すると、クリス

チャンの場合は「自分には出来なくても、全能主には出来る」と声が掛かり、希望が見えてきます。

即ち、反発の心や()ねた心で「出来ない」と反抗するのではなく、全能主に祈って助けてもらおう

とする「信仰の心」に立つのです
。その心を抱いた時、「アオリストの救いの立場を頂いた事が、

本当に感謝だなー」と思えるのです。これこそが信仰が増していく秘訣です。


(結)私達は、イエス様の贖いによって無罪放免とされました。無罪放免と言っても、罪がなくなった

わけではありませんので、いつまでも罪人です。だから、怒られることは死ぬまで続きます。しかし、

こんな自分でもイエス様のアオリストの救いによって罪が赦されているのですから、主に向かって

助けを求める事が出来ます。これが、クリスチャンの特権です。ですから、クリスチャンが「怒られた

後に、どうすべきか」
という事の答えは、自分の力で頑張って改めて行くのではなく、「主に委ね、

主に信頼し、主に成し遂げて貰うのです。」
これが信仰であり、私達の救いです。ですから、私達は

イエス様によるアオリストの救いを頂いている者として、怒られた事を弁解して跳ね返すのではなく、

心の関所を砕いて、心の中に入れていく習慣を身につけてしまえば
「主を信じて行く方向転換が、

すぐに出来るようになります。」
どうか、この信仰の極意を身に着けて下さい。放蕩息子は、惨めな

経験を通して、「自分は天に対しても、お父さんに対しても、罪を犯した」という事実を認めて、

心の中に入れたのです。私達もその遜りに至るべきです。どうか、心の関所を破り、怒られた事を

飲み込んで、心の中に入れ、そして主に信頼して行く「信仰の歩み」を始め出しましょう。


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