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2024年1月14日

天に意識を向けた精錬された信仰

ルカの福音書 12:49~53


(起) ルカ12章49節、51節の御言葉から、「キリストの救いは、地上の救いではなく、罪人が

天に引き上げられて、天に国籍を持つことであり、
地上にあっては、天に意識を向けた精錬された

信仰
を貫いて行く事である」という、救いの根本を学んで行きたいと思います。


(承)さて、ルカ12章51節を見ますと、イエス様は「あなた方は、わたしが平和をこの地上にもた

らすために来たと思っているのですか。そうではありません。むしろ分裂です」
と、はっきりと言われ

ました。それは、地上的な救いが人間の救いではなく、罪の世界から「罪のない御国」に入れて頂く

ことが、真の人間の救いであるからです
。即ち「イエス様は、人の罪を贖い、キリストの血によって

罪の汚れを清め、無罪放免された者を御国に集めて下さる為に来られた」
ということです。これは、

なんと驚くべき救いでしょうか!
一般的には、地上で和気(わき)()()と楽しい日々を過ごして

行く事が、人間の救いだと思われています。しかし、それは、聖書の示すところではありません。

何故なら、パウロは言っています。「私は思います。今の時の苦しみは、やがて私達に現されようと

する栄光に比べれば、取るに足りません。・・・実に、被造物自体が、共にうめき共に産みの苦しみを

続けていること
を、私は知っています。」(ロマ8:18,22)
と言っているからです。この世は

人間にとって救いの世ではありません。むしろ、苦しみの場です。それなのに、クリスチャンの中で

「地上で幸いを得るために信じた」と言う人が大勢います。しかし、イエス様は、「地上に平和をもた

らす為に来たのではありません。むしろ分裂です」
とはっきり言われました。なぜなら、この地は黙示

録に記されているように、「天は巻物が巻かれるように消えて行き、すべての山と島とはその場所から

移されてしまった。」(黙6:14)とあるからです。最後に残るのは天の御国しかありません。です

から、私達は地上に望みを置くのではなく、天に望みを置きます。ところが、その考え方は、地上を

第一にする人達からは理解されません。その為、信じていない人々とは対立が起こるのです。

また、軋轢(あつれき)が起こってきます。イエス様も、地上的な価値観を抱き、地上での王国を作ろうと

しているユダヤ人達との対立が常にありました。天の事を求めるのか、地の事を求めるのか、これは

対立の原因です。そこには必ず分裂や争いが起こってきます。
この対立や分裂の試練こそ、イエス様が

「火を地上に投げ込むために来た」(ルカ12:49)と言われた意味です。
キリストの救いを知った

クリスチャンには、そのような苦しみがやって来るという事です。


(転)しかし、イエス様は「その火が燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカ

12:49)
と言われました。それは必要な火だからです。どういう事でしょうか。第Ⅰペテロ1章

7節には「あなた方の精錬された信仰が、火で純度を高めても朽ちていく金よりも、はるかに高価な

ものであることが明らかとなって、イエス・キリストの現れる時には、賛美と栄光と誉れとに至るから

です」
とあります。一般的に、精錬とは金属を火で溶かしながら不純物を取り除き、純度の高い、質の

良い金属にして行くことを言います。私達の信仰も、火で精錬されて行く事によって、純度の高い

信仰に成長して行くのです。即ち、地上にあって苦しい中に置かれたとしても、その中で信仰を表して

行く事が、純度を高めて行く信仰になるからです。そして、その精錬された信仰ならば、イエス様が

再臨された時に、賛美と栄光と誉れの中に置かれるのです。
ですから、私達にとって、苦難によって

精錬されて行く事は必要です。具体的には、地上の人間と調子を合わせていくことではなく、はっきり

と主を信じる信仰に立つということです。罪人である私達は、地上にある限り罪人のままです。

ですから、救われたからといって、過ちを犯さないと言う訳ではありません。ですから、もし罪を

責められた時には、そのままお(しか)りを受け、「分かりました」とへりくだって受け留めて行くべき

です。何故なら、天に望みを置いたクリスチャンならば、地上の責めはへりくだって受けていけば良い

からです。それで、天の国籍を失うことはありません。ですから、罪人が変なプライドに立って、

弁解と言い訳をする必要は無いのです。言い訳は、自分が罪人ではないことを主張することですから、

キリストと繋がることはありません。怒られて反抗し、不平を言う心は、飲み込んで現さないこと

です。これが、当たり前に出来る心の状態を作り上げて行かなければなりません。
私達は生まれながら

の罪人で、死ぬまで義人にはなれないのですから、一生涯怒られる罪人であることを認め、贖い主なる

キリストを見上げて行くことです。
この生き方によって純度の高い信仰を積み上げていくのです。


(結)しかし、「地上の事はどうでもいい」という、思い上がった態度を取るべきではありません。

事は、一面で捉えてはならないからです。全ての事に二面性があります。私達は救われた者ですが、

まだ救いを知らない人々はたくさんいるのですから、時には未信者に対して配慮して行く事も必要

です。例えば、自分が教会に行く事を家族の者に反対された場合、「申し訳ないのですが、これだけは

通させて下さい」という気持ちで教会に来ているとしたら、普段の時には、それなりに家族に対する

心遣い、思いやりを表す事でしょう。それは、天に意識を向けているからこそできる事です。その

心遣い、思いやりは家族の者に伝わります。これも、精錬された信仰の在り方です。このように、

私達は二面性を理解した中で、精錬された信仰、純度を高めた信仰を自分のものにして行きましょう。

私達は、天に国籍を持った者として感謝し、精錬された信仰を貫いて行こうではありませんか。


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