2023年12月24日
『罪の肉の姿を担われたイエス様によって、 私たちを救ってくださった、全能主への献身』
ローマ人への手紙 11:1~2
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(起) クリスマスメッセージとして、イエス様がこの地上に誕生された次第について見て行き、「私達に
イエス様の救いを下さった全能主に献身し、世の終わりの集大成に使って頂く事」について学んで行き
たいと思います。
(承)さて、ローマ書8章3節を見ますと、「全能主はご自分の御子を罪の肉の姿をもって遣わし…」と
あります。この「御子を罪の肉の姿」というのは、単なる「人間」という表面的な形だけをイエス様が
お取りになったということではありません。もし「人間」という表面的な形だけであるなら、アダムの
ように、創造主が塵を集めて人の形を創り、そこに命の息を吹き込んで、人間として生きるものとすれば
良かったのです。そうすれば、人間の姿をした救い主をこの地上に遣わす事ができたでしょう。
ところが、全能主はそのようにはなさいませんでした。
(転)では、全能主がご自分の御子を「罪の肉の姿」をもって遣わし…」とは、具体的にどういう事
なのか、その理屈を見て行きたいと思います。ルカの福音書とマタイの福音書には、イエス様の誕生に
ついて記されています。マタイ1章20~22節を見ますと、「マリヤを妻として迎えなさい。その
胎内に宿っているものは聖霊によって生れる方だからです。彼女は男の子を産みます。その名をイエスと
名付けなさい」とあります。この「処女が聖霊によって身ごもり、男の子を生む」という事は、イザヤが
予め700年程前に預言していた事です(イザヤ書7:14、9:6~7)。その預言がその通り実現
したのですから、聖書に書いてある事は決しておとぎ話ではありません。イエス様は、本当に処女マリヤ
から誕生されたのです。その誕生の過程は、私達の自然分娩と同じ生まれ方です。つまり、イエス様は
十月十日間をマリヤのお腹の中で胎児として育まれ、人間の肉体を取られた赤子として誕生した
のです。それは、突然大人の人間として存在したのではなく、女性の子宮の中で受精卵が細胞分裂を
繰り返し、およそ60兆個の細胞が人間の肉体となり、私たちと同じ肉体を取られたという事です。
即ち、イエス様はマリヤの肉の遺伝子も受け継ぎ、人間の肉の性質も受け継いで、私達と同じように、
罪深い肉を担われたという事です。しかし、ある神学者達は、「胎児は胎盤を通して育って行くので、
母マリヤの血液は胎児のイエスに混じっていない。だから、イエス様は母マリヤの肉の性質を一切受け
継いでいない」と言います。確かに、母親の血液と胎児の血液が混じる事はありません。もし混じって
しまうと、母親と胎児の血液型が違う場合に、胎児が死んでしまうからです。ですから、母親の血液と
胎児の血液は、管としては繋がっておらず、胎盤を通して、母親の栄養を胎児が受け取れるような仕組み
になっています。だから、母親の血液と胎児の血液が混じっていないというのは、その通りです。
しかし、そもそも胎児というのは、元は一つの受精卵から成長します。この受精というのは、胎盤が
できる前の段階であり、その受精卵には、当然、母マリヤの卵子の中にある遺伝子が使われます。そして、
マリヤの遺伝子と、聖霊による遺伝子がクロスオーバーして、子供が生まれてくるのです。その時に、
もしマリヤ自身が持っている遺伝子だけで子供が生まれるとなると、の子しか生まれません。なぜなら、
女性はXXという遺伝子しか持っていないからです。男性は、XとYという遺伝子を持っていますから、
女性のXと男性のYが掛け合わされてXYになった場合に、初めて男の子が生まれてきます。という事
は、聖霊によって、全能主の奇跡の働きが外側からの介入がなされて生まれたという事です。そうで
ないと、処女マリヤから男の子が生まれる事はあり得ないからです。このようにして、イエス様は
マリヤの遺伝子という肉の性質を受け継ぎ、マリヤの肉を荷なって誕生されたのです。ところが、
イエス様はマリヤの肉の性質を荷なっただけで、聖霊に守られて罪は犯されませんでした(Ⅰヨハネ3
:5)。ですから、本来なら十字架で裁かれる必要はなかったのです。しかし、私達の罪の肉の
身代わりとなって、死をもって私達の罪を償うために、全能主はご自分の「御子を罪の肉の姿」を
もって遣わして下さいました。この事の故に、私達の肉の罪は贖いが成されたのです。即ち、わざわざ
人間の罪の肉を荷なって来られたイエス様が、私達の罪の代価を払うために十字架で死んで下さった
という歴史上の事実が、私達を救いに導くのです。きちんとした理屈に基づき、論理に基づいて、
私達の罪の贖いは為されているのです。そして、その事の故に、「キリストは、私たちの卑しい
からだを、御自身の栄光のからだと全く同じ姿に変えて下さる」(ピリピ3:21)のです。私達は、
今は罪人の肉を持っていますが、復活の命は、新しい御霊のからだ(肉)に変えられるのです。
ですから、今の私達は、罪過を犯す事がありますが、その罪の責任を取り、悔い改めて行くなら、
イエス様の血潮の故に赦されます。その証拠に、イエス様の十字架の贖いはアオリスト形なのです。
即ち、イエス様の十字架の贖いによって私達の原罪はもう赦されており、罪過については、イエス様の
血によって洗って行けば良いと言われているのです。この救いが私達自身の中に実現しているという
事は、何と感謝でしょうか。
(結)この事が分かったら、この救いを下さった全能主の為に自分の命を使いたいと思いませんか?
あえて罪過を犯して行く為に使いたくはない筈です。イエス様の誕生は、私達をその生き方へと導くの
です。ですから、ここまで明確な救いを罪人の私達にも与えて下さった事を感謝して、「今日、ダビデの
町に、あなた方の為に救い主がお生まれになりました。この方こそ主なるキリストです」という、救い主
イエス様の誕生を心から喜ぼうではありませんか。
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