2023年12月17日
『信仰は感情によらない』
ヘブル人への手紙 11:1~2
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(起) ヘブル11章1節の「信仰とは、待ち望まれている事柄の『実質』であり、まだ見ていない
事柄を『確認』することです」という御言葉から、「自分の感情を信じるのではなく、どこまでも
聖書の論理を自分の理性を働かせて信じるのが、私たちの信仰の在り方である」ことを学んで
行きたいと思います。
(承)さて、今日は、信仰とはどういうものかという事をはっきりとお伝えしたいと思います。
この御言葉の中に、「信じる心とは、待ち望まれている事柄の実質」とありますが、「実質」という事は、
「実体」という意味でもあります。即ち、「待ち望まれている事柄」、「まだ見ていない事柄」は、
決して空想ではなく、「確かなものである」という事です。それは、私達の感覚、或いは感情で
捉えるものではなく、きちんとした「理性に基づいて、理屈で確認して、信じて行くもの」である
という事です。幸いにも、私達の教会は、毎日通読表に従って一人一人が聖書を読んでおり、毎週
その中からメッセージが語られています。即ち、聖書の論理に基づいてメッセージが語られている
わけです。「過去において、全能主の御子であるお方が人間の姿を取って、罪深い肉を背負って
(ロマ8:3)この地上においで下さり、私達の身代わりとなって、十字架で罪の贖いをして下さった」
という内容は、聖書の理論です。そしてその理屈に基づいて、罪人の私たちでさえ罪の償いが成されて
いることを確認するのです。そして、その救いが「アオリストの時制による」という理屈に基づくもの
ですから、未だ私たちは罪過を犯す者であっても、悔い改めるなら、赦されるのです。ですから、
私達は、その聖書の理屈に基づいて、イエス様の救いを信じているのです。即ち、自分の感情で
信じたのではありません。聖書が語る理屈に基づいて、信じた信仰であるならば、まず原罪は赦され
ており、残りの生涯の罪過も、悔い改めて、どこまでも聖書の理屈に立って、赦しを信じて行けばいい
のです。
(転)しかし、そのように牧師が語ってきた事が、皆さんの心の内になかなか結び付きませんでした。
何故かと言いますと、メッセージを聞き終わると、生まれながらの感情に戻って、物事を損得で考えて
しまう肉の性質に流されてしまうからです。ですから、せっかく理屈に基づいて語られた聖書の
真理を喜んだのに、普段の感情を土台にした思いに戻ると、その途端に聞いたメッセージが、どこ
かに飛んで行ってしまうのです。メッセージを聞いている時は、「聞こう」という意識がありますから、
理性を働かせて聞いています。そして、そのまま受け止める事ができるでしょう。ところが、メッセ
ージが終わると、私達は自然に自分の中から出てくる感情の声に従って考えてしまうのです。
その感情には損得が働きますから、いつも自分にとって都合のいいように考えようとします。です
から、自分にとって「出来ないと思う事」を言われると、その瞬間に「嫌だ」という気持ちが働きます。
すると、たとえ理屈で語られた御言葉の真理も、消え去って行くのです。こうして、たとえ理性で
理解したものも、「自分には出来ない」という感情が先立ち、御言葉に立つ信仰が簡単に崩れて
行きます。このように、感情というものは実に厄介です。聖書に書いてあるように、「自分がしたい
と思う善を行わないで、したくない悪を行ってしまう」のが感情なのです。そんな感情は全くあて
になりません。私達の感情は毎日変わります。良い時もあれば悪い時もあります。嬉しい時もあれ
ば悲しい時もあります。その感情次第で、私達は聖書によって語られていることを信じる時もあり、
信じない時もあるのです。そんな姿勢は、御言葉より上に立っている「傲慢な神、即ち、サタン」と
同じ姿なのです。しかし、私たちは聖書が語っている内容を信じたのですから、聖書の語っている通り
に信じて生きて行くのが「へりくだった私達の信仰のあり方」です。以前の私達は、罪人であり、
元々は裁きの中に置かれていた者です。そんな、「その滅ぼされるべき怒りの器を、大いなる寛容を
持って忍耐して下さったとすれば、どうでしょう」(ロマ9:22)。私達のように「怒りの器」であった
者も、キリストの故に「憐れみの器」とされるのです。ならば、その理屈に立って、自己主張を
するのではなく、むしろ遜って「こんな者に憐れみを注いで下さっている全能主の御心のままに生き
ます」と心を定めて、「どうか、御心のままにお使い下さい」と、自分自身を主に委ね、信頼して、
従って行きましょう。これを、日々の生き方の中で具体的にやって行くのです。すると、信仰は、
待ち望むことの実体となり、信仰の確信となるのです。即ち、普段から、自分の心の中に働く感情の
声を退け、聖書の御言葉に基づいた理屈に従って判断し、「聖書はこう言っているから、自分はこう
します」と、理性的に行動して行くのです。それを実際に行ったのが、ジョージ・ミュラーさんです。
ミュラーさんは、「孤児の父は全能主である」という御言葉に基づき、「それならば、全能主が孤児
たちを支えて下さる」という理屈に立って「確認」し、信じ続けて行きました。そして、本当に
主が支えて下さったという信仰の「実質」を味わったのです。これは、おとぎ話ではありません。
ミュラーさんの内に起こったことは、聖書の理屈を信じた「実体」の証です。ですから、「聖書に書いて
ある事は、今日も起こる」という理屈を私達も信じるのです。
(結)こういう訳で、全能主が遣わして下さった御子イエス・キリストの救いは、聖書が語っている
理屈ですから、私達はその聖書の理屈を信じた者として、信じる心を自分の考えの土台にすれば
良いのです。そうすれば、私達の信仰は非常にシンプルになり、たとえ、そこに感情が入って来ても、
理性に基づいて確信が戻ってくるでしょう。どうか感情から離れて信じて下さい。「私達は、自分が
罪人である事が分かったら、もう自分を信じる事はできません。」これは、理屈です。だから、
全能主を信じます。全能主を信じる者は、聖書の御言葉を信じます。そして、聖書に書いてある
理屈に基づいて、歩んで行くのです。どうか、このように考えを入れ替えて、自分の感情を信じるの
ではなく、どこまでも聖書の理屈を信じて、信仰の歩みを始め出しましょう。
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