2023年12月10日
『罪の罪過の責任を負い切った後は、 後ろのものを忘れ、前のものに向かって懸命に努力していく』
第Ⅱペテロ3:1~2
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(起) 創世記32章の記事と、ピリピ3章13~14節、4章7節の御言葉から「自分の罪の責任を
負い切った後には、人知ではとうてい測り知ることのできない全能主の平安を受けて、後ろのものは
忘れ、前のものに向かって懸命に努力して行く信仰者になる事」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、ヤコブは兄エサウを騙して長子の権利を奪い、また、イサクを騙してエサウの
祝福も奪いました。当然、エサウは怒り、ヤコブはエサウの憤慨が収まるまで、母の兄ラバンの
所へ逃れました。そして、ヤコブはラバンの下で20年間働いた後、自分の家族を引き連れて
帰って行きました。しかし、故郷に戻る際、兄エサウの心の内には恨み心が残っているだろうと思い、
自分の持っていた財産をいくつかに分けて、それを贈り物として先に持って行かせ、なだめの供え物に
しようとしたのです。実に、このようなヤコブの狡猾な姿を読んで疑問に思う事は、ヤコブの
行動の中には騙しがたくさん入っていたにも関わらず、その騙しに対して全能主はヤコブを一つも
戒めていないという事です。ヤコブだけではなく、アブラハムやイサクもペリシテの王アビメレクを
騙して、たくさんの財産を手にしました。しかし、全能主は彼らを戒めていません。このように
読んで行くと、ヤコブの子孫であるイスラエル人は、「彼らと同じように世渡り上手な人間になって
行けば、全能主から罪を問われずに祝福を受けられる」と思ってしまいます。実際、ヤコブはラバンの
羊に細工をして、たくさんの富を得ました。そして、現在のユダヤ人も、ヤコブと同じような考えを
持って異邦人を騙して富を得ています。彼らは「自分たちの先祖は人を騙して財産を手にしたの
だから、自分たちも人を騙して富を得ても良いのだ」と思い、世界の富の3分の1をユダヤ人が
握っているのです。それは、21世紀の現在、実際に起こっていることです。そして、最終的に
ユダヤ人は、世界の富を牛耳って世界経済を支配し、666の印を持たない者には、売る事も
買う事も出来ないようにし、666が全能主の宮に座って「自分が神だ」と宣言するのです。という事は、
騙しからは、して聖なる祝福には至らないと言うことです。こんな騙しの方法を喜ぶのはサタン
だけです。ですから、全能主がヤコブ達をそのように扱ってきたのは、世の終わりに至って、全能主の
集大成の中にユダヤ人が組み込まれて、サタンの陰謀に荷担し、イエス・キリストを殺した血の責任を
ユダヤ人に取らせる為なのです。
(転)では、私達はどうでしょうか。私達もヤコブたちと同じように狡猾な騙しをして、儲けても良い
のでしょうか。いいえ、それは許されていません。何故なら、新約と旧約では違うからです。新約では、
第1コリント3:19に「全能主は、知者たちをその悪賢さの中で捕らえる」とあり、「この世の
知恵は、全能主の御前では愚かだからです」(前記と同節)とあります。即ち、悪賢さは、全能主の
裁きの中に置かれるのです。しかしながら、新約ではイエス・キリストの贖いによって、人の罪と
罪過に対して、御子の血によって救いが提供されました。エペソ1章7節では、「罪」という言葉と
「罪過」という言葉が使われていますが、「罪」という言葉は「生れながらの罪人の原罪」を意味し、
「罪過」とは「人間が生まれながらに持っている罪の性質の結果として表れてくる咎」を指します。
ですから、新約では、「生まれながらの罪」と「その罪過」がイエス・キリストのアオリストの救いに
よって、過去・現在・未来に至るまで、無罪放免の贖いを頂けるのです。ですから、その赦しに
預からせて頂いたならば、ヤコブのように騙しによって全能主の祝福を得ようとすることは間違ってい
ます。ここに、旧約のヤコブたちのように、生まれながらの罪の贖いがされていない者と、新約の
人々の違いがあるのです。しかし、「生まれながらの原罪」が赦された私たちでも、「罪過」に
関しては、この身体が贖われるキリストの再臨の時までは犯してしまう者です。ですから、この「罪過」を
犯した場合は、度毎に悔い改めて、その責任は取って行くべきです。即ち、どんなに自分
自身のメンツが潰れようが、恥を被ろうが、この地上の「罪過の罪」は、この地上でその
報いを受けて、責任を取って行くべきです。そこまでした時に、初めて「全能主は、人知ではとうてい
測り知ることのできない赦しと、魂の平安を与えて下さるのです。」(ピリピ4:7)。このように
責任を果たした者は、もうその罪に関しては忘れて、「前のものに向かって懸命に努力し、ひたすら
目標を目指して走って行く事」が許されているのです(ピリピ3:13~14)。私達はこのような
救いを頂いているのですから、そこがヤコブたちのように旧約の人々とは違うところです。逆に、
自分が犯した罪の責任を負わずに、「自分は生れながらの罪人です」といくら叫んでも、そこに平安は
ありません。むしろ、叫べば叫ぶほど、その罪が自分の中に甦ってきて、サタンからの責めを受ける
だけです。ですから、私達は正直に自分の罪を認めて、「全て自分がやりました」と、その罪の泥は
全て被って行くべきです。
(結)こういうわけで、騙しの罪過の責任を負わずに赦しがあると思ったら大間違いです。私達が
「何とかして、死者の復活の状態に達したい」(ピリピ3:11)と願うなら、砕かれた悔いし心を
持って、自分のプライドも何もかも投げ捨てて、罪の責任を負って行く事です。そこで初めてイエス・
キリストの救いが、私達の中で平安となって現わされてくるのです。そして、もうその罪に関しては
忘れて、必死に前進して行く事が許されているのです。この信仰に立って行くことが贖われた罪人の
道です。どうか、イエス様の贖いによって原罪の赦しと、罪過の赦免を頂いた者であるならば、自分の
罪過の責任は、きちんと負って、人知ではとうてい測り知ることのできない全能主の平安を味わって、
後ろのものを忘れ、前のものに向かって懸命に努力して行く信仰者として歩みましょう。
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