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2023年9月3日

信じない者にならないで、信じる者になりなさい

ヨハネの福音書20:24~29


(起) ヨハネ20章27節の「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」という御言葉から、

イエス様の救いどういうものであるかを学び、「主を信頼し、主が成し遂げて下さるという信仰の

領域の中で生きて行く事」を学びたいと思
います。


(承)さて、イエス様は復活された後、弟子たちの前に姿を現されました。しかし、トマスだけは、

その場にいなかった為に、彼は不信仰になり「私は、両手の釘跡を見、私の指をそこに差し入れ、

私の手を脇腹(わきばら)に差し入れてみなければ、決して信じられない」
と疑ったのです。すると、

イエス様は、八日後に、再び弟子たちが集まっていた部屋に現れ、トマス自身に身体を見せて、

「わたしの両手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に差し入れてみなさい」
と言われました。

そして、
トマスに「見ないで信じる者は、幸いです。」と声を掛けられたのです。このことは、私たち

にも、同じように語られている事
柄です。「見ないで信じる者は幸いです」と。確かに私たちは、

主を見てはおらず、ただ信じるところから信仰が始まりました。しかし、私たちの信仰の問題点は、

いつも不安を持ち、自分が信じたことさえ疑ってしまうことです。過去において信じた
という経験が

あるにもかかわらず、「信じた生き方をしていない」という、情けない状態があります。それは

主に信頼し
切って、任せきる」という、信仰の生き方をしていないからです。それは、信じた事に

対して、いつも不安を抱き、人間的な損得勘定に走ってしまうからです。その原因は、何でしょうか

それは、未だに生まれながらの罪の肉を抱え込んでい
るという現実があるからです。しかも、そこを

いつも見させるように、悪魔が働いています。しかし、そんな私たちでも、「主を信頼し、主が成し

遂げて下さる」
と信じて生きて行けば道は開かれます。なぜなら、イエス様の救いは、アオリストの

救い
だからですアオリストとは、イエス様の十字架によって「私たちの罪の贖いは過去において、

完全に成し遂げられてしま
ったことを、ただ言及し、現在の自分の状態に関係なく、私たちの上に

実現してしまっている事柄」を示す時制のことです
。ですから「罪は赦されている」というのが、

アオリストの救いです
。ということは、私たちの生まれながらの罪深い自分が、
今なお続いていた

としても、ダメだと思う必要はないのです。なぜなら、その事実を念を押すように、パウロさんは

「罪に対して既に死んだように、私た
ちは、キリストに在って生きているものであると認めなさい

(ロマ6:11)と言い切っているからです。ですから、生まれながらの肉の性質を、今なお引っ()

ている現実があったとしても、私たちは救われているのです。
イエス様の十字架の贖いは、時間的な

問題は一切関係なく、過去にやって下さった事実が、今なお将来にわたって有効であるというもの

す。
だから、私たちがアオリストの救いを信じた以上、その時から、すでに「信仰の領域」に

入ってしまった者なのです
。ということは、信じた者が、「今なお自分は罪で満ちているから、

信仰の領域の中で生きることができない」と言うのは、間違って
います。なぜなら、救われた者で

あっても、命閉じる時まで、肉の性質の中に閉じ込められた者であるからです。この事は、信じた

全てのクリスチャンに言えることです。ですから、私たちがたとえ肉の中にいる現実があったと

しても、イエス様の
贖いはアオリスト形で、過去において成就してしまっている事柄なのですから、

心を奮い立たせ、「信じる領域」の中に立
って、大胆に主に()り頼んで行っていいのです。

それが、信じたクリスチャンの救われた立場なのですから、その信じる特権に留まっていて、

良いのです。ですから、私たちはみな
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われ

ています。あえて、信じた領域から出て行く必要はありません。


(転)では、そのイエス様の救いが、どれほどのアガペーの愛に満ちたものであるのか?別の角度

から見て行きましょう。
まず、マタイ伝1章とルカ伝1章を見て行きますと、イエス様の誕生に

ついて記されています。イエス様の誕生は、処女マ
リヤから生まれたのですが、一般の人間と同じ

ように()(とお)日を()て、マリヤさんのお腹の中から普通分娩で誕生しました。ということは、

「マリヤさんの卵子と、聖霊による精子の結合によって受精卵となり、子宮に着床してから、細胞

分裂を繰り返して胎児となって出産した」ということです。ということは、イエス様が生まれ出た

時には、当然マリヤの遺伝子と、
聖霊による遺伝子が、クロスオーバーしていなければ、男の子が

生まれることはありません。即ち、イエス様はマリヤの
遺伝子の影響も()なって生まれ出た事に

なります。それは、
「罪深い肉と同じような形で遣わされた。」(ロマ8章3節)とある御言葉通りなの

です。もし、マリヤが持っているXXの遺伝子だけで子供が生まれるとなると、クローン人間の女

しか生ま
れません。ところが、イエス様は男子ですから、聖霊がXYという男の遺伝子をマリヤの

中に入れ、受精させたのです。そ
して、その受精卵が細胞分裂し、胎児となって生まれ出て来た訳

です。そこには当然マリヤの肉の遺伝子も入っています。このように、イエス様はマリヤの肉を

荷われましたが、聖霊の特別な守りの中で罪を犯すことなく、律法をことごとく全うされたのです。


ところが、ある神学者たちは、「胎児は胎盤を通して育って行くので、母マリヤの血液は胎児の

イエス
に混ざっていない。だから、「イエス・キリストは、母マリヤの肉の性質を一切受け継いで

いないから、完全な人であり、完
全な神である」と言います。確かに、母親の血液と胎児の血液が

混じった場合、胎児は死んでしまいます。血液型が
違うからです。ところが、先程申し上げた

ように、胎児は受精卵が分裂して成長して行きます。受精というのは、胎盤が
できるもっと前の

段階であり、その受精卵は、マリヤが持っている女としての遺伝子XXと、聖霊が注いだ男としての

遺伝
子XYが結合されたものです。という事は、「イエス様は、マリヤの肉を荷われて、罪深い

人間の罪の贖いを成された」
ということです。そのことは、キリストの十字架の死は、正に私たちが

本来負うべき荷であったのですが、「私たちの負うべき十字架を、キリストが身代わりとなって

負って下さった」
という驚くべきアガペーの愛(一方通行の愛)の贖いだったのです。現在の私

たちは、罪人のままの人間ですが、キリストの贖いがアオリストですから、現在の状態の如何に

関わらず、
アガペーの愛による罪の贖いは有効であり、私たちの罪の裁きは終わった者とされています。

こんな救いを、信じるだけ頂けるとは、何と感謝なことでしょうか。このことが分かったら、本気で

キリストのために役に立つ者になりたいと思いません
もし、キリストが罪の借金だらけの私たちの

借金を荷なって、全てを払って下さったなら、本当に感謝です。しかし、イエス様
が完全な人であった

なら、「人間の肉とは無関係の方となり、ただ死んだ」と言うことになります。そうであるならば、

その方は
借金を負った者の苦しみにあう必要はありません。だだ、死を以て借金を払っただけのことに

なり、それが、「私たちの罪
を荷った」ということにはなりませんので、キリストの十字架は、私たち

にとって他人事となり、全能主の御坊ちゃまの思いつきの気紛(きまぐ)れであったことになります。

そこには、借金を負った者の苦しみなどは必要ありません。しかし、
「キリストは、人としての肉の

生活の日々には、激しい叫び声と涙とを以て、御自分を死から救うことの出来る方に対して、祈りと願い

とを献
げ、そして、その深く敬う心の故に聞き入れられました。彼は御子であられたにも関わらず、

様々の苦しみによって従順を学び、全き者とされました」(ヘブル5:7~9)
とあり、「キリストは、

多くの人の罪を負うために、ただ一度だけご自身を献げられました。」(ヘブル9:28)
とあり

ますから、本当に、キリストは、私たちの罪のために苦しみを負って下さったということです。

即ち、救いは私たち自身の行いから出たものではないと言うことなのです。ですから、私たちの

努力や正しさや、信仰の強さというものは無関係であり、ただ、イエス様の十字架の贖いが、救いの

根拠なのです。
だから、今、一生懸命「信じる領域の中に入ろうとするのではなく、イエス様の

アオリストの救いに与った者として、すでに信仰の領域の中に入っている者として、信じて行く

ことが当たり前の事として生きて行くべきです。


(結)この事が分かったら、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」という言葉が

生きてくるのではないでしょうか。私たちがキリストの「救いの領域」、また、信じる「信仰の

領域」の中に置かれているという事実は、既にキリストの十字架を信じた時に与えられたものです。

だから、私たちはどこまでも「主を信頼し、主が成し遂げて下さる」という心を持って
生きて行こう

ではありませんか。もう頼りにならない自分の肉に頼る必要はありません。また、その肉に訴えて

くる悪魔の揺さぶりに脅
かされる必要はありません。悪魔には、この真理を突きつけて、退ければ

いいのです。そのくらいの強さを持っていないと、全能主の集大成の仕事はできません。どうぞ、

信じない者にならないで、信じる者になって行きましょう。


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