2023年8月27日
『わたしのいる所に、わたしに仕える者もいるべきです』
ヨハネの福音書12:26、詩篇37:5
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(起) 「もしわたしに仕えようとするなら、その人は、わたしに従って来なさい。わたしのいる所に、
わたしに仕える者もいるべきです」という御言葉から、学んで行きます。
(承)この御言葉から語られていることは、私たちがイエス様を信じたと云うなら、「私たちは、
信じた者の領域の中で、主に仕えていくべきだ」ということです。この信じた者の領域とは、どういう
領域なのかと言いますと、それは「主に信頼せよ、主が成し遂げて下さる」(詩篇37:5)という
領域のことです。即ち、クリスチャンはイエス様を信じたのですから、「主が成し遂げる」と言われた
言葉を信じて、すべて主に信頼して生きて行くべきです。すなわち、自分を信じて、自分の思い通りの
世界の中で生きて行くのではありません。信じた以上は、「主が成し遂げて下さるという領域」の中で、
そのことを信じる当事者として生き、どこまでも「主が成し遂げて下さる」ことを土台として、成す
べきことを淡々として行くのです。それが嫌なら、主を信じるのを止めて、自分が信じる世界の中で、
自分の思うように生きて行けばいいのです。しかし、主を信じるというなら、信じる世界に留まり、
主に仕えて行くべきです。なぜなら、イエス様は「わたしのいる所に、わたしに仕える者もいるべき
です」と言われたからです。
(転)では、「わたしのいる所」と言われたその領域とは、どういう領域なのかと言いますと、主が
考えている領域の中で生きて行くことです。主が考えている領域では、「自分勝手に生きてはいけ
ないし」、「自分勝手に考えてはいけないし」、「自分の苦手なことはしない」とか、「自分が嫌なら、
自分は遣らない」という生き方ではありません。全て、主に聞いて、主の御心を行い、主が満足
される世界で、主の栄光を表していく世界のことです。信じた者の領域とは、そういう中に留まること
であり、それが「わたしのいる所」の信じた者の生き方なのです。では、どうして、そんな生き方が
出来るのでしょうか?それは、イエス様の救いを頂いた者は、アオリストの救いを頂いたので、自分の
行いに根拠を置いていないからです。また、その信仰の生き方も、アオリストです。即ち、自分が
正しい人間になったから、信仰的な生き方が出来るというのではなく、今現在が罪人であったとしても、
自分がアオリストの救いを信じた以上、既に、信仰の領域に入ってしまった者ですから、信仰の領域の
中で生きて行っていいと言われているからです。ですから、信じた者として、信じた領域の中で生きて
行くのは正しいことであり、当然「主が成し遂げて下さる」と信じた者は、その生き方が、日々の
生き方になって行くからです。なぜなら、この領域の中にいることが、イエス様の言われた「わたしの
いる所」であり、「わたしに仕える者のいる所」だからです。この生き方をするためには、自分を主に
明け渡し、自分の我を砕いて、主に心を開いていくことです。それなのに、自分を守る思いがあっては、
主のために仕えて行くことは出来ません。それでは、どこまでも、生まれながらの罪人の姿を持ち
続けていくことになります。私たちは、頭では全てのことを理解しています。ただ、理解している
通りの生き方をしていないのが現実です。何故でしょうか。それは、信じる本気の心がないからです。
即ち、信じていないからです。自分の都合の良いことは信じますが、自分の都合の悪いことは信じない
のです。それは、御利益主義であり、損得勘定の世界に留まっているからです。
(結)それならば、自分の信仰の意志として、「信じた者の領域の中に入った者」として生きて行くか、
それとも、自分の考えの領域を持ったままで、「信じる領域の中に入ろう」とするだけの生き方をして
行くのか、どちらかです。しかし、このメッセージの要点は、「信じる」とは、信じようとすること
ではなく、「信じた者」として、信じたことを過去のもの(アオリスト)として信じた生き方をする
ことを説いています。それは、ただ信じていると嘯いて、仮面をかぶったまま、「悪魔の領域の
中で生きて行く」ことではありません。信じた領域では、信じているお方を騙すことは出来ません。
即ち、自分のプライドを持ったまま、自分を守って主に仕えて行こうとする欺瞞(主を騙し、
欺くこと)の世界は、通用しません。そんな信じ方では、未だ未信者と同じですから、信じる
領域の外にいることになります。では、あなたは、今、一体どちらの領域にいるのでしょうか?
「信じた領域」の中で生きているのか、それとも、信じる領域の中に入ろうとしているだけなのか、
自分の信仰を吟味して下さい。もし、「信じた」のに、信じた領域の外にいるなら、その領域を改める
か、或いは信仰を止めるか、どちらかです。信じるか、信じないかはあなた次第です。
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