2023年8月20日
『古い自分を死に渡し、キリストによって新しく生まれた自分で
生きるなら、多くの実を結ぶ』
ヨハネの福音書 12:20~26
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(起) ヨハネ12章24節の「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは、ただ一粒のままです。
しかし、もし死ねば、多くの実を結びます」という御言葉から、「生まれたままの古い自分を死に渡し、
キリストによって新しく生まれた自分で生きるなら、多くの実を結ぶ」ということを学んで行きたいと
思います。
(承)さて、ここでイエス様は、「人の子が栄光を受ける時が、遂にやって来ました」(12:23)と
言って、ご自身の栄光について言及されましたが、それは「人の子が死んで復活し、父の御側で持って
いた栄光で輝かせて下さい」(ヨハネ17:4~5)と言われた十字架の死のことでした。この死につい
ては、この時、既にユダの裏切りが(12:4)、はっきりしていましたので、イエス様は御自分の死を
自覚されており、また、その後の復活によって栄光を表す」という一連の死と復活のことです。即ち、
「自分が死ねば、全能主の栄光も自分自身の栄光も表わされる」という事でした。ですから、父の栄光と
御自分の栄光は、自分の死にかかっていたのです。そして、続きのメッセージは、私たちにも同じように
語られていた遺言の言葉です。即ち、「あなた方も、もし私に仕えようとするなら、十字架を負ってわたし
と共に死に、栄光を表しなさい」ということです。そうすれば、「全能主が多くの実を結ばせて下さる」
という約束事です。
(転)では、私たちが死んで実を結ぶためには、どうしたらいいのでしょうか。それは、自我を砕いて、
死に渡すということです。私たちは皆、一粒の種としてこの世に生まれて来ました。しかし、生まれながら
の命は、初めから罪の中に閉じ込められており、魔物を懐に抱いていました。ですから、何をやっても
駄目で、思い通りにならない人生を味わって来たのです。つまり、これまでずっと実を結ぶ事ができず、
力のない罪人であった自分を死に渡すということです。そして、そんな種でも、もし死に渡せば、多くの
実を結ぶと、イエス様が言われました。なぜなら、種は、自分の力で実を結ぶのではなく、土に蒔かれた
時に、その本体の姿を失い、初めて新しい芽が出て、穂が成長し、実が結ばれて来るからです。すなわち、
種であった自分の身柄を、主に任せて死んだ時、新しい穂が出て、何十倍もの実が実るのです。確かに、
生まれたままの一粒の種では、何の役にも立ちませんが、生まれたままの自分の命を、主に委ねて死に
渡した時、新しい命となって、何百倍もの実を結ぶようになるのです。その為には、まず「自分は罪人
である」という事実を認め、その命を見切って、新しい命の中で生きて行くのです。この新しい命とは、
「イエス様にあって生きる命です。ですから、生まれながらの自分の力で実を結んで行くものではありま
せん。」私たちが「主に信頼し、主が成し遂げて下さる」という中で、実を結ばせてもらう実なのです。
それは、丁度種が地に蒔かれた時のようで、「夜昼、人が寝起きしている間に、種は芽を出して育って
行きます。そのように、地はおのずから実を結ばせるものです」とある通り、私たちも、頼りにならない
自分に拘って行くのではなく、どうしようもないダメな人間を死に渡し、見切りをつけ、主に実を
結ばせて貰うのです。クリスチャンは、アオリストの救いを下さったイエス様によって、実を結ばせて
貰う新しい生き方の中で、豊かにされていくのです。ところが、実際問題、生まれつきの自分から離れる
事はなかなか難しく、頭では分かっていても、心がついて行かないという現実があります。しかし、答えは
一つで、自我は死ぬしかないのです。私たちは、「生まれながらの自分は死ぬしかない者だ」という事は、
十分わかっている筈です。あとは、自分の自我を砕いて離れどうかなのです。それは、「こんな自分は
信頼できないから、信頼できるイエス様に頼って行く」と定めるかどうかにかかっています。「生まれ
ながらの自分の息の根をどうやって止めたらいいのか」と、いくら考えても無理です。生まれながらの
自分をなくし、消してしまう事はできないからです。ただ、イエス様が下さった救いの世界に入り、その
世界で生きると決めた時にのみ、生まれながらの自分から離れ、イエス様だけを見上げて生きて行くように
なるのです。
(結)ですから、私たちは純な心でこの世界に飛び込むしかありません。この決心は、イエス様を
信じた時と同じ事です。私たちが信じた時には、聖霊様の助けがあり、「信じればいいのだ」という
声を聞いて、信じる決心をしました。同じように、今も御霊の声は聞こえている筈です。「真実は
ここにしかありません。信じてその世界に入りなさい」と。即ち、生まれながらに駄目な自分を抱え
込んでいることを正直に認めて、「もうお手上げです」と降参し、自分を信じるのではなく、全能主を
信じる世界に純粋に入る事です。全ては自分の死にかかっているのです。「一粒の麦が地に落ちて
死ななければ、それは、ただ一粒のままです。しかし、もし死ねば、多くの実を結びます」という
ことが、真理です。ですから、この道しかありません。私たちは、「生まれたままの古い自分を死に
渡し、キリストによって新しく生まれた自分で生きて行く」という世界に入って、信仰に依って生きて
行く道を始め出そうではありませんか。
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